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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第3章  水無月「学校祭の季節です」
23/81

第23話「ほどけない手 」

 次郎は学校祭夜の部――ダンスパーティー――をなめていた。なんとなく、おぼっちゃんな感じで白けてしまう、どうしようもないイベントだと思っていた。

 だが彼がその場に居合わせて感じたことは『すごい』の一言だった。

「海軍金沢基地から来て頂きました! 海軍軍楽隊のみなさまでーす! はい、拍手」

 渡辺潤――次郎と同部屋の先輩――は司会者として軍楽隊を紹介している。

 軍楽隊は『挨拶』代わりに音楽を演奏始めた。

 次郎は、その体に響く生演奏と管楽器が動くたびにそれがライトに反射してキラキラと輝く姿を見て、鳥肌が立てて感動していた。

 ――すっげー。

 口は半開きになる。

 彼は生まれた初めて聴いた生演奏というものに対して心が震えていた。

 それだけではない。

 ここにいる参加者は、軍関係者だけでなく、金沢市内の一般高校の生徒もたくさん招待されていた。

 このため、いろいろな制服が体育館の中で入り混じっていて、目にも華やかな風景が次郎の目にも映っていた。

「野郎ども! 今日はシャバの女子高生が相手だ! 決戦だ! (いくさ)はすでに始まってるからな!」

 マイクを力強く握って激を飛ばす潤。

 野次のような歓声がそれに答えた。

「余計なお世話だ!」

「しゃあああ!」

「てめー彼女持ちの余裕か?」

「うおおおおお!」

「こいやああああごらあああ!」

「彼女募集中!」

 雄叫(オタケ)びを上げる男子学生。

 成功率は低いが、そういう場になるのは毎年恒例のことであった。

「みんな、張り切ってるなぁー」

 体育館の壁に寄りかかり、にこにこしてつぶやいているのは真田中尉だった。

 制服を着れば、この場に溶け込むこともできるかもしれない、そんな二十八歳。

 その隣にいる次郎は壁際にちょこんと座っていた。

 彼女は昼間の事件を気にして被害者である学生のそばにいた。

 被害者である次郎、風子、そして緑。

 サーシャを除いて彼らはいっしょに行動をしていた。

 ちなみに真田中尉以外と軍楽隊以外の大人はほとんどいない。

 大人達は少しでも学生が伸び伸びとできるように、外野に徹しているからだ。

 と、聞いていた。

 次郎は窓の外がなにやら騒がしいので、ちょっと覗いてみる。

「あのダメオヤジ達はただの酔っ払いになっているから、外は気にしちゃだめよ」

 と言ってため息をついた。

 見ると、二中隊の副中隊長や他の教官達がわいわい焼肉をしながら楽しんでいる。

 まあ、子供の相手なんかしてる暇はない。

 本当の理由はそこであった。

 次郎は、鈴もあっちでわいわい飲みたかったんだろうな、と申し訳なくなってしまった。

「すみません、お手数かけて」

 そう彼が言うと、鈴は一瞬びっくりした顔をした。そして何を言っているかわかったのだろう、優しい笑顔になって言葉を返す。

「子供が大人に遠慮しちゃってー、かわいいなあ上田君は」

 鈴はそう言って、彼の頭を撫でた。

「真田中尉、むっつりですから気をつけてください」

 次郎を睨みながらそう言ってきたのは風子。

「な、む、むっつりって」

 次郎は鈴から香るお姉さんのにおいに少しうっとりしていたのは事実だ。つい図星をつかれた格好だったから、動揺して言葉もカミカミになってしまった。

 そんな次郎は目だけでも抵抗しようと風子に視線を移すが、別の理由でそれを外してしまった。

 昼の事件で暴漢に殴られた痣が見えたからだ。

 鈴がうまく化粧をして目だたないようにしていたが、痣はうっすらと見えている。

 ――俺のせいで。

 もっと自分が強ければ、あんなことにならなかった……そう彼は自分を責めていた。

 彼の視線に気づいてしまったのか、彼女は頬を触った。

「……ごめん」

 次郎はつぶやくように謝った。そして彼の左腕に風子の視線を感じた。

 たかだか、骨にひびが入ったぐらいで、大げさだけど彼は思っている。だが実際、触れれば激痛が走るような状態だった。

 なんにしても、痛々しい姿ではある。

「……別に……ごめん」

 風子はぼそりそう言うと視線を外した。

 ステージの方から歓声が上がる。

 二人の気分とは裏腹に周りはどんどん盛り上がっていた。

 風子はまわりをチラッと見て、そして少しだけ次郎に近づけた。

「……余計なことしたから上田君に怪我させちゃった……ごめん」

「中村のせいじゃ……」

「なんで……私なんかのために、サーシャも上田君もあんなことに」

 もちろん、風子は緑も人質に捕られていたことはわかっている。それでも、自分が殴られた瞬間、二人の雰囲気がガラリ変わったのはわかっていた。

「サーシャは自分が狙われているってわかっていたから、わざわざ離れていたのに」 

 余計な真似をしたという思いが強い風子。

 もし自分がいなかったら、あんなことにならなかったかもしれないと思っている。

 会場がドッと沸いた。

 潤の司会、強弱を付けて煽り、波をどんどん大きくしている。

 次郎の先輩は大衆を扇動する才能があるのかもしれない。

 そんな盛り上がり方だった。

 フォークダンス。

 三年生の男子と女子がまず踊り、そして他校の女子に声をかけていく。

 最初は遠慮がちだった雰囲気。

 だが、それは潤の煽りのお陰で、気になる男女に気軽に声をかけてもいいようなものに変わっていた。

 音楽もどんどん軽快な演奏で場を盛り立てている。

 会場が沸いたのはそれだけではない。

 風子と同部屋の先輩である田中純子が男子の制服で現れたからだ。そして、ドレスを纏った女子――同じく同部屋の二年生である長崎ユキ――の手を取り、音楽に合わた軽快で息の合ったステップでダンスを披露していた。

 下級生の女子達から黄色い悲鳴が上がる。

 数名、新たな性癖をこじらせた女子が誕生した瞬間であった。

 男子勢も負けずにパフォーマンスをはじめる。

 現れたのは、学年一番のイケメンでクール、そして一部では変態と有名な宮城京だ。

 長身に細めの眼鏡をかけた彼は、制服の第二ボタンまで外し、セクシーさをアピールしている。そして、パートナーは可憐な少女。

 いうまでもないが大吉である。

 京は紳士的な態度でステップを踏んでいた。

 その内だんだんと情熱的になり、二人は腰をピッタリくっつけるような情熱的なステップに変わる。

 男たちは「やめろー」とか叫んでいるが、女子たちの喜びの悲鳴というか、囃す声にかき消されていた。

 数名、新たな性癖をこじらせた女子が誕生した瞬間であった。

 風子の隣にいる元々こじらせている緑も大興奮。

「やれー」

 と叫んだと思うと、ぶるぶるっと震えた後に「うをー」とか唸っている。

 一方、サーシャも輪の中に入り、男子達と踊っていた。

 次郎に対する時とは違い、とても淑女な表情で。

 彼女は彼女で、今日の昼間の失敗――風子と緑を巻き込み、怪我もさせた――ことを気にしていた。そして、その気持ちを出しようがないので、体を動かして発散しているのかもしれない。

 だから、休むことなくダンスの輪の中にいた。

 次郎はそんな光景をみながら椅子に座ると、ため息をついた。そしてふと視線を上げる。

 いつの間にか、別の高校の女子生徒が目の前に立っていた。

 髪の毛を左右に結んで垂らしている頭。

 切れ長の目。

 お嬢様高校で有名な、金澤中央女子高(カナジョ)の制服。

 じー。

 次郎は視線を感じる。

 遠慮ない視線だった。

 ――だれだっけ。

 いろいろなことがあったせいだろう、すぐに思い出すことはできなかった。

 目の前の女子は次郎をまだ見ているというか、見下ろしている。

 次郎は見上げて、ぼーっと考える。

 その瞬間、走馬灯のように昼の出来事が蘇った。

 ――白いパンツ。

 ――飛びかかる刃物。

 ――痛い。

 ――お母さんっ。

 ――むにゅ。

 ――見てないっ。

 ――ごっつんこ。

「あっ」

 襲って来た女子、そしてごっつんこした女子。

「ばれた?」

 見下ろす女の子は、スカートを押さえながらボソッと言う。

「今度から、仕事の前はパンツを変える」

 その女子はそう口にしながらぐっと次郎に詰め寄った。

 ――え、こんなところで、やられる。

 彼は、反射的に椅子を倒すようにして後ろに仰け反ろうとする。だが、女子の動きは速く、ぐいっと彼の肩に手を置くと、彼はそれ以上動くことができなくなった。

 周りも異変に気づく。

 鈴が女子を掴もうと手を出した。

 風子は緊張が走ったが、少しも動けなかった。

 緑はまったく気づかず「大吉ー、今だー」とか叫んでる。

 やばいと次郎は思った。

 殺気というのか、何か良くわからない雰囲気だ。

 無表情な女子の顔が彼の恐怖を倍増させる。

 女子は次郎に顔を近づけた。

 首の関節だけで仰け反る次郎。

 ちゅっ。

 場が固まった。

 さっきまで大声を張り上げていた緑も、この雰囲気に気づいたのだろう。

 はっと見たときは、次郎と女子の唇が合わさっていたから、口を開けたまま固まった。

「ちゅう?」

 気の抜けた声を鈴は出した。

 次郎は固まったまま唇を離した女子を見上げた。

 彼女は無表情のまま、ペロリと自分の唇を舐めている。

「許してくれる?」

「へっ?」

 間抜けな声の次郎。

「お母さんにこれをしたら許して貰えるって聞いたから」

「許すって、え? 僕たちを襲ったこと……」

 こくんと無表情のまま頷く少女。

「ちゅ、ちゅちゅちゅちゅ、ちゅうですよ」

 彼の常識の範疇に、許しを請うようなことでちゅうをするような文化はない。

「ゴメン、もう襲わない、契約切れた」

 彼女はぼそぼそと言った。

「許すもなにも、契約とか、こっちは命を……」

 彼は立ち上がりながら、強い口調で目の前の女子に言葉をぶつけようとした。

 が失敗した。

「どおりゃあ」

 そんな声とともに理不尽な邪魔が入ったからだ。

 サーシャだった。

 彼女が目の前の女子に何かしようとしていると思ったから焦る。

 ――ちょ、ちょっと謝ってるんだし、暴力は……。

 そう思ったものの、サーシャのことだ容赦なくぶちのめすに違いない。

 彼は咄嗟に女子を庇おうとして一歩踏み出そうとする。

 ――間に合わないっ。

 緊張が走る。

 ごぼっ。

 次郎は衝撃と痛みを感じた。

 ――あ、僕か。

 サーシャの跳び蹴りが彼の右肩に当たっていた。

 彼女は次郎を蹴った足で踏み台にして、飛び跳ね、女子と彼の間に着地した。そして、女子に対して、ファイティングポーズをとって立ちはだかる。

 そのまま次郎に話しかけた。

「いまっ、パンツ見た?」

 なら、跳び蹴りなんかしなければいいのに、と風子は外野からツッコミを入れたかったが、とりあえず黙っている。

 次郎は固まっていた。

 あまりの理不尽さに混乱を極めていた。

「サーシャちゃん、お兄様もかっこいいけど、あなたもかわいいわねー」

 落ち着いた女性の声。

 サーシャも含め、まったく気配がなかったので誰も気づかなかったが、いつの間にか一人の女性が近づいていた。

「うわっ」

 サーシャが声を上げるが、女性の胸に挟まれてしまったからだろうか、それ以上は声がもごもごとなっていた。

 次郎はサーシャを挟んでいる大きなおっぱいを凝視する。

 ――あの時の!

 おっぱいでわかる洞察力。

 次郎のむっつりは伊達ではない。

「こんばんは、瓜生って言います、お昼に二回ほど会ったわね」

 サーシャを抱きしめたままそう名乗る女性は、あの昼間に次郎が胸とごっつんこした母親だった。

「娘の三和(ミワ)もお世話になっちゃったね」

 鈴はその異様な雰囲気に危険を感じたため、咄嗟に瓜生母を掴もうと手を伸ばす。

 だが、女性はするりとサーシャを離しながら鈴の手を通り抜け、次郎を抱きしめていた。

「ごめんなさいね、商売だからしょうがなかったんだけど、そのお詫び」

 むぎゅーっとされた次郎はやわらかい感触に包まれた。

「あんまり気が向かないお仕事だったんだけどね」

 もごもごと次郎は何かをしゃべろうとするが声にならない。

「三和も私も、もうあなたたちを襲わないから」

 瓜生母はそういうとチラッと後ろの方に目を動かす。

 その方向には、ロシア帝国海軍の制服を着た男が立っていた。

 男は冷たい視線をサーシャに向けていた。

「愚かな妹よ」

 流暢な日本語。

 そこは兄妹共通である。

「……」

 サーシャは睨み返すが、いつもの勢いはない。

「情けないことだが、ボディーガードを雇った」

「そんな、勝手……」

「他人を巻き込み、怪我させるような奴が口答えをするな」

「う……」

 そう言うと、ミハイルはさっさと体育館を出て行った。

 今日の学校祭で来賓として招かれているため、まだ酒宴の席があるというのもある。それよりも、あまり長いこと妹といっしょにいると、自分が保てなくなるのだ。

 ――くそう、サーシャのあの凹み具合、あの表情がかわいすぎるっ。

 ミハイルは口元が緩みそうになるのをぶるぶる震えながら押さえるのに必死だった。

 この兄もこじらせていた。そして素直になれないのは、この家の血なのかもしれない。

「あんなかっこいい人に愛されて、嫉妬しちゃう」

 そういって瓜生と名乗る女性はサーシャをからかった。

「愛されてなんか……」

 ぶーくれるサーシャ。

「と、いうことで雇われちゃったから、よろしくね、お嬢様」

「なっ」

 どうも、兄が言っていたボディーガードなるものは、目の前の母と娘のことらしい。

「今後はサーシャお嬢様の護衛をすることになったから」

「あの人が、そんなこと」

「以後お見知りおきを」

「ちょっ」

 瓜生はそう言うと、ピョンっと窓に飛びつき、そこから「ばいばい」と手を振って飛び降りた。

 二階である。

「サーシャは護るけど、次郎とはもう一度戦いたい」

 三和がそう言って、次郎の手を握った。負けたことを根に持っているようである。

「負けた男には見も心も捧げなさいってお母さんに言われてたけど、今ちょっと気になる人がいるから」

 どんな教えを娘にしてるんだ、仕事人の母親よ。

「ちゅうで、許して……また勝負して負けたら、好きにしていいから」

 平然と言ってのける三和。

 何を言っているのか理解できない次郎、緑、風子。

「なんなのよ……」

 風子がかすれた声を出す。

「昼間はサーシャと二人きりで密会しようとするし……変な男に囲まれるし、殺そうとした人を許したと思ったら笑顔でさようなら……」

「え、密会、ええ?」

「変なおばさんのおっぱいに騙されてるし」

「だ、だまされて……」

「殺されかけた女の子とちゅーするし」

「無理矢理だし」

「なんか、おかしい」

「うん、おかしいことは認める、うん」

「意味がわかんないよ、顔を殴られるし、そんなやつらと仲良くできるなんて」

「仲良くしていないし、だいたい、この人達は殴った奴らと違うし」

「違わないっ」

 彼女の声がどんどん大きくなっていく。

 赤く上気した顔がその興奮度合いを物語っていた。

「仲間じゃない……あれは別、ただの馬鹿」

 三和が能面男達のことをさらりとけなす。

「あなたもおかしい……だって、さっき、お昼に殺そうとした相手なのよ」

「うん、殺そうとは思ってなかったけど……もちろん途中で殺しちゃってもいいかもって思ったけど」

 次郎は刃物を持っていたから。

「うんって……なに、もう」

「だから、仲直りのちゅーをした」

「変よ……」

 彼女は三和から視線をずらして次郎を睨んだ。

「殺そうとした相手でも、言い寄ってくる女の子だったら許すなんて、どんだけ、むっつりなの、上田君」

 彼だって意味がわからない。腕に怪我をして、今でも痛いのをやせ我慢している状態だ。それなのにむっつりすけべだの好き勝手に言っている彼女にカチンときた。

「中村だって、余計なことに顔を突っ込むから、怪我をしたんだろう」

 それでも自分の怪我のことが彼女のせいだとは言わない優しさは残っている。

 彼女は頬のすこし腫れた部分を押さえた。

 異様な雰囲気にふたりが包まれるなか、三和が一歩前に出て、次郎に手を差し出した。

「踊りましょう」

 場の空気を読めない、いや、読む気もさらさらない感じで三和は唐突に言った。

「ジロウは怪我をしているからダメ」

 サーシャは三和が差し出した手を払う。

「痛くしないから」

 金髪娘の妨害をもろともせず、三和は次郎の右手をぐいっと引っ張った。

 彼はそのまま立ち上がる。

 少しでもはやく風子から離れたい、そう思ったから。

 でも、立てなかった。

 弱々しい力で次郎の服が引っ張られていたからだ。

 動けなかった。

 彼は振り返り、自分を引っ張っている手を見た。

「あれ?」

 そんな声を出したのは風子だった。

 次郎の上着の裾に手を伸ばし、引っ張っている風子。そして、当の風子の方がびっくりした顔で掴んだ自分の手を見ている。

「お、おかしいな」

 彼女は服を掴んだ手をぶんぶん振って、離そうとする。だが、ぶんぶん手を振っても離れなかった。

「ご、ごめん、ほんとごめん」

 最初、次郎は訝しげな表情をしていたが、だんだん神妙な面持ちになっていった。

 彼女の顔が青ざめて、体が小刻みに震えているのがわかったからだ。

「あれ、なんでだろう……なんだか、急に、怖くなってきて、あれ? さっき、怒っていたのに変だよね」

 涙目の彼女は、笑おうと努力するが、顔がひくひくと引きつるだけだった。

「なんか、いろいろ思い出したら、急に変になっちゃって、あれ? あれ?」

 そして、息が荒い。

「ははは」

 笑っていない彼女の顔から笑っているような声がでた。

 次郎は彼女の肩に手でも置いて慰めようかと思ったが、みんな見ている前である、思わず踏みとどまった。

「はーい、女の子を泣かさないよーに」

 そう言ったのは、真田中尉だった。

 右手でぐいっと三和を掴み、左手でサーシャを巻きこむ。

 くるっと回りながら粘着テープ付のローラーみたいに、取り巻きを剥ぎ取っていった。

「女の子同士踊るのも楽しいから、みんなで踊りにいこー」

 彼女が『女の子』を強調しているのは気のせいではない。二十代後半とは見えない若々しさを保つにはいろいろと努力がいるのだ。

「はい、逃げない」

 真田はぐいっと緑を懐に抱えこむ。

「はいはーい」

 くるくると鈴は三人の女子を無理やり回しながら、二人から離れる。そしてダンスの輪の中に入って行って見えなくなった。

 サーシャはむすっとしながら。

 ――しょうがない。

 そんな意味のロシア語で呟いていた。

 しばらく何も言葉が出ないふたり。

「……」

「……」

「ごめんなさい」

「うん」

 謝る彼女。

「中村は踊らない?」

「顔の痣を人に見られたくない……」

 小さな声。そして、涙目で彼を見上げた。

 ――反則だ。

 次郎はそう思った。

「上田君は踊らない?」

「怪我してるから」

「……そうだったね」

「うん」

「もうちょっとこのままでいい?」

 彼女は俯いたまま、次郎の服を握る自分の手を見ていた。

「……とりあえず、座ろうか」

「うん」

 次郎はそんな彼女をはじめてかわいいと思った。

 遠くで会場の盛り上がった声が聞こえているように思えた。そして彼は自分の服を握る彼女の手に体を寄せる。

 会場の盛り上がりはしばらく続きそうな雰囲気。

 そんな中、少しだけ違う時間をふたりは過ごしていた。

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