第2話「ドウテイには気をつけろ」
「その趣味の悪い看板は何?」
金沢駅の中央ホール。
股を大きく広げベンチにどかっと座っている男がいる。
陸軍の制服に軍曹の階級章を付けている彼は『ようこそ陸軍少年学校へ!』と書かれた看板を肩に担いだまま欠伸をしていた。
その彼の後ろに立ち、声をかけたのは同じく制服に中尉の階級章を付けた女性将校だった。
彼女の長い髪は首の後ろあたりで纏められていて、軍曹とは対称的にきっちりとした身なりだった。
刺のあるハスキーな声。
ベンチに腰掛けている男――綾部軍曹――は首だけ向けてヘラヘラした顔をだった。
「このまわりについてるボンボン、可愛いでしょう、あ、このりくちゃんの絵とか、なかなか上手いと思いません?」
「学生? これ作ったの」
「いいえ、現役の若いやつらですよ」
彼女――日之出中尉――は、中隊のむさ苦しい兵隊たちが、一生懸命ボンボンを作ったり、かわいらしい看板の絵を描いている様を想像してしまう。
そして、微妙な表情になってしまった。
あまり、いい光景ではない。
「二中の伊原少尉は可愛いって褒めてくれたんですが……ああ、やっぱり副官にはあれでしたね」
副官とは日之出の事だ。
中隊付副官、中隊の先任幕僚として、小隊長など中隊の将校のまとめ役である。
「あれって何よ」
訝しげな目で彼女が返す。
「それ以上は言えません」
ニヤッと笑う綾部。
それに対し、売られた喧嘩は買うのが彼女の信条。
「来月の有給は無し、言わないのなら」
へらへらしていた綾部の顔が一瞬凍る。
「でも正直言っても……いつも怒りますよね」
「怒りません、あー、有給欲しくない? ツーリング予定してるんでしょう? えっと、付き合っている年上の彼女と」
彼女は彼の顎に手をやり、クイッとそれを上げた。
そして腰を曲げ冷たい眼差しのまま座っている彼に顔を近づける。
「早く言え」
凍りついた笑顔のまま、綾部は観念して口を開いた。
「伊原少尉はお若いので……」
「死にたい?」
「滅相もない、副官は素敵な大人の女性だと褒めてるんです」
「ほうほう」
綾部は堪えきれず、そっぽを向く。
――まったくこの女、そっちの意識はねーのかよ。
彼女が上半身を倒すものだから、嫌でも目の前にその強調された胸が迫ってくるのだ。
それに、これだけ体を近づけると、彼女からほのかに柑橘類を思わせる心地良い香りに包まれてしまう。
彼は普段はまったく女性として彼女を意識していないが、ついこういうギャップにドギマギしていた。
年下の癖に、なんとも扱いにくい上司ではある。
「臭い」
日之出が顔をしかめた。
「くさい?」
「タバコ臭い、加齢臭酷い、今から子供たちを迎えるのに、そんな臭い出してたら品性が疑われる、嫌われる」
中隊付副官の日之出、それから人事係の綾部は新入生達を駅まで迎えに来ていた。
複数に分かれる新入生の到着に合わせ、受け入れ当番を中隊毎に割り振っている。
ちょうど今日が日之出たちが受け入れをする当番だから朝から夕方まで一日中ここで待ち構えていた。
駅に到着した子を誘導し、別の当番に引き渡す。そして、軍用車に乗せ、学校のある駐屯地まで輸送する。
「あ、副官この看板持っててもらえます?」
「どうして?」
「いや、もう三時間もここにいるもんですから、これが切れちゃって」
綾部はタバコを吸うふりをする。
「我慢しなさい、ねえ、さっきのこと聞いていた? あなた匂うって、臭いって」
彼は絶望したような表情をしたまま「オニババ」と口パクで抗議するが、彼女に睨まれすぐに口を閉じる。
そうは言っても彼女は今年二十八。ひどい言い様ではある。
だいたい、綾部の方が年上だし、むしろ無精髭のせいで年齢以上に老けて見える。
どちらかというと、こいつの方がおっさんである。
「髭剃ってない」
「ばれました?」
「靴が汚い」
「そこまで汚れてませんが」
「ネクタイの緩み」
「いや、暑苦しいので」
「あ?」
ギッとした表情で凄む日之出。
こんな顔をするから、浮いた話の一つも聞こえないんですよ、と綾部はいつも思ってしまう。
「いえ、なんでもありません」
彼女は胸の前で腕を組み、こめかみに血管を浮かせながらダメ軍曹を見下ろす。
ちなみに中隊では『お局様』『女王様』と言うあだ名が付けられている。
こういった彼女の日ごろの行いのせいであることは明白だ。
「ったく、身だしなみもできない人が、これから青少年の育成を担う立場に……」
言葉を遮る様にして、彼は勢い良く立ち上がった。
「あー来た来た、若いのが来ましたよ、説教は後で受けますから、ね」
説教から逃げるように彼は立ち上がり、大きな荷物を運んでいる若い少年少女に向かって看板をぶんぶん振った。
綾部が招き寄せた男女二人の新入生は顔を合わせるなりお互いに固まった。
「げ」
「げげ」
中村風子は「げ」と言って顔を仰け反らせた。そして眉と口の端をひきつらせた。
同じく上田次郎は「げげ」と言って顎を引きながら肩を寄せる。そして、深い皴を作るようにして眉をしかめた。
「お? 知り合い? まさか、元カノ元カレの関係とか」
綾部軍曹が囃し立てる。男女二人、出会った瞬間にお互いに顔を引きつらせて「げ」である。
何かの因果が二人の間にあったとしか思えない。
「そんなんじゃありません」
と風子が声を荒げて否定する。
「そんな訳ありません」
と低めの声で次郎は否定した。
その態度を見た綾部はますますニヤけた顔になる。
かわいいのだ。
こういう青少年を見ているとうきうきしてしまう。だから彼は「青春だねー」とか呟いて二人をからかった。
「ま、とりあえず、ようこそ陸軍少年学校、第一〇九少年学校へ、歓迎しちゃうよ」
綾部はそう言って次郎の頭をポンポンと叩いた。
「この辺でちょっと待っててくれ、まだ他にも来る子達がいるから、この時間帯は」
ヘラヘラ笑っている綾部と、それに対面している男子と女子はむすっとしたまま別の方向を見ている。
端から見ると、不思議な光景なのかもしれない。
「あー、俺は人事係の綾部軍曹、軍曹ってのは階級な、どうだ? 軍隊っぽいだろう、ま、軍隊に来て、ぽいはないよな、ぽいってのは」
と自分で言って自分で笑っている。
「あー、軍曹ってのはあれだ、下士官の階級、下士官ってのは平たく言えば、分隊長クラス……そうだな七、八人くらいの部下を持つぐらいかな。ま、ぶっちゃけ下っ端なんだけど」
そしてチラッと日之出中尉が立っている方に目配せをして、急に小声になった。
「あの人は中尉な、将校さんってやつ、まあ将校の中では下っ端になるんだけど、俺よりずっと偉い、しかも怖いんだよ、あの人、気をつけてな」
次郎も風子も軍服を着た女性を目に捉えた。
二人には『目の前の軍曹に比べたら数段まともな感じの人』『けっこう綺麗な人』と思った。
「ま、おいおい階級とか覚えていくと思うから慌てなくていいよ、あーそうだ、用事があってちょっと行ってくるから、はい看板、ちょっとおトイレ、留守番よろしく」
綾部はそう言うと次郎に看板を押し付け、さっさと喫煙所に向かって歩き出した。
もちろん便所ではない。
ぽつりと残された二人は、適当人間としか思えない綾部に呆れていた。
彼が居なくなると呆れた顔をお互いに向け合いそして苦笑する。
同時にはっとした。
そして、互いにそっぽを向いて不機嫌な顔を作った。
ちら。
次郎は気まずさから、ちらちらと体の向きを変えるついでに風子を見てしまう。
そういえば良く顔を見ていなかったし、だいたい名前も知らない。
気になる。
一方風子はそんな視線が気になり、そして気持ち悪いと思った。
母親がよく言ってたことを思い出す。
――ああいう、チラ、チラ見る男は、だいたいドウテイ。経験がないから意識したくなくても、意識しちゃうのがもろバレなのよ。
なるほどと、彼女は思った。
確かに目の前の男子はなんとなく童貞っぽい。
風子も経験は無いが、理不尽に上から目線で見ていた。
――ドウテイには気をつけるのよ。基本がっつくし、女の子をちゃんと扱えないし、雑だし、ちゃんとすることしないから。
――とはいっても遊びなれてる男もやめたほうがいいわ、見分け方? そんなの、勘よ、勘。
なんて偉そうに母親が講釈しながら風子に植えつけていった言葉がどんどん蘇ってくる。そして、昼間っからやるとかやらないとかそういうことを考える自分が恥ずかしくなってきて顔を伏せた。
母親みたいになりたくはなかった。
――だいたいお母さんだって、まともな男の人連れて来たことなかったじゃない。
彼女にとっての母親は反面教師だった。
それでもその経験とやらで、男を見分けるための言葉を繰り替えし刷り込まれている。
影響されていた。
つまり彼女にとって次郎は『女と見れば誰にでもがっついて、とにかくやることしか考えない、雑な男だ』と、この短期間でレッテルを貼りつけていた。
第一印象恐るべし、そして次郎は不憫である。
そもそも人付き合いは得意ではない。
風子は中学校では浮いていた。
彼女は漢気がありすぎた。
中一の時、クラスでいじめられていた女の子に味方をしたため、いじめグループの標的になってしまった経験がある。
最初は無視から始まった。
残念な事に、いじめられている子もいじめる方にまわって、何かに付けて班を組むときは一人ぼっちになった。
彼女も黙ってはいない。
物理的な行動に出てくるのをじっと待っていた。
そして机の落書き、教科書への落書きが始まった時、しっかりと小型カメラでその姿を録画した後、ずかずかと教室に入り一人一人を張り倒していったのだ。
もちろん、いじめグループの親が「暴力だ」と言ってきたが、彼女が録画した動画を見せると相手の親は黙った。
――やっぱり、血は争えないわねえ。
母親は娘の話を聞いてそう言ったという。
小型カメラは母親が経営するスナックに置いてある『何かあった時の備え』として置いていたものを借りて来たのだ。
それからはいじめグループだけでなく不良グループからも一目を置かれる存在になってしまった。
そのため、一匹狼の不良――本人は至って品行方正に生きているつもりだったが――として恐れられ『姐さん』『スケバン』という、とても恥ずかしいあだ名を付けられる三年間を過ごすことになった。
だから、新高校生活では、人間関係だけはうまくやろうと思っていたのだが……。
――さっそく失敗とか笑えない……。
風子は不機嫌そうな顔をしている次郎に目をやる。
そういえば、よく顔を見たことがなかったからだ。
見た目はカッコいい部類なのかもしれないと思った。しかし風子は所謂イケメンという生き物は好きではない。
母親が連れてくる若い男がそのイケメンだったし、中学でも言い寄ってきたのはそのイケメンと言われる人間だった。
カッコいい顔というのはあまり信用できないと思っている。
風子の好みは目力があって素敵な表情をする男子だった。小学生の頃の初恋も、そういう男の子だった。
そんな考え事を中断させる声。
「あ、あの」
消え入りそうな女の子の小さな声が聞こえた。
「陸軍少年学校の新入生……ですか?」
風子よりも背が低く、前髪ぱっつんショートボブ、垂れ目でおっとりした感じの顔が特徴的な女子。
「俺、陸軍少年学校の新入生の上田次郎。九州から来たんだけど、君は?」
がっつくように次郎が話しかける。彼は風子にさっきまで向けていた表情とは一八〇度違う笑顔を女の子に向けていた。
風子は返事をしようとしたところを次郎に邪魔されたため、口の中でもごもご話そうとした言葉を飲み込んでいる。
「三島緑です、静岡から来ました……よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。
「静岡、あ、俺の親戚が……」
次郎の言葉が途中で遮られた。
風子がぐいっぐいっと捻り込ませるように彼と緑の間に入り込んだからだ。
風子は次郎に向けていた表情とは天と地の差の笑顔を緑に向ける。
「私は中村風子、風の子と書いて風子、京都から来ました、京都って言ってもぜんぜん京都らしくない町なんだけど、舞鶴って聞いたことある?」
右腕を次郎の体の前に伸ばし、彼が前に出ないようにガードする。
風子は必死だった。中学生の頃とは違う。
私はこの子と友達になるんだ、と熱くなった。
バスケのポジション争いのように体と体でぶつかりながら次郎をブロック。
「天橋立とか、そういうのが近くにある海軍の町……ですよね」
「そうそう、京都って聞いてがっかりするぐらいの田舎町だけど、海が綺麗な……」
ぐぐっ。
風子が一瞬だけ気を抜いた隙に、今度は次郎が右後方から肩を入れ込むようにして二人の間に入ってきた。
そうは言っても右手で例の看板を持っているものだから左手だけで彼女と対峙することになる。
比較的不利な態勢だった。
「静岡?どのあたり? 俺、親戚が御殿場にいるんだよね」
「あ、その、沼津……」
風子もむきになって、右半身を彼に密着させるとともに、右手を彼の脇の下からもぐりこませ彼の胸、首にかけて制した。
「あのね、上田君とか言ったっけ、私が話してるんだけど」
笑顔を崩さず力んだ声で彼女は言った。
「お、俺も三島さんと話がしたいんだよ」
お前じゃ会話にならないから、と次郎の顔には書かれているのを風子は読み取った。
負けじと彼女の右手を押し戻そうと次郎は力を入れる。そうすると風子は手だけでなく腰まで彼に押し付けて踏ん張っていた。
そうやって、オロオロする緑を目の前にして一進一退の攻防を繰り広げる。
ムキになった二人は、ともに足をガニマタにして踏ん張った。
一方緑は二人の迫力に気負されて、一歩また一歩と下がっていった。
ドン引きと言ってもいい。
「だいたい、なに? 電車の中では無視するわ、人の顔見て不機嫌になるわ、話の邪魔はするわ」
声がどんどん荒くなる。
「それはそっちだろう、俺は無視してないって、勝手に怒って、だいたい最初に三島さんに声をかけたのは俺が先」
「うるさい! こんなところに来て、早々にかわいい女の子をナンパするような奴なんでしょ? 危険、汚らわしい、私が三島さんを守る」
「な、ナンパなんかじゃない、俺は……う」
風子が次郎の首元に肘をあてがってぐいぐい押すのだ。立ちギロチンチョークを自然にやっている。
彼もむきになって、押し戻そうとするからどんどん苦しくなる。
そして風子がとどめの一撃。
右足で引っ掛けるようにして、お尻で突き飛ばそうとした。
彼はまさか女子がそんなことをするわけがないと油断していたため、簡単にバランスを崩し後ろに倒れそうになる。
次郎は必死に倒れまいと抵抗。
もがくように後ろから左手を伸ばし彼女の体にしがみ付いた。
「ちょっ」
「うわっ」
ふたりは素っ頓狂な声をあげ、ジタバタしながら仰向けに倒れた。看板が派手に床にぶつかり、その勢いで釘で打ち込んでいた棒の部分と板の部分が弾け飛ぶ。
次郎は両手が不自由なまま頭を打たないようにうまく受身を取ったつもりだった。だが、上に重なる風子の全体重が乗ってきたため、頭は守れたが胸を思いっきり圧迫され、げほげほとむせることになった。
風子は風子で次郎の体の上でじたばたしていた。彼の左手ががっしりと体を掴んだまま離れないからだ。
しばらくして天井を見た。その格子状の白い蛍光灯が目に入ったとき、すうっと冷たい気持ちになる。私何してるんだろう……と。
なんだか悲しくなってきて、そして脱力してしまった。
――もう、失敗しないって決めていたのに……ああ、たぶん三島さんは、私のこと見てドン引きなんだろうなあ。
と思った。
残念なことに、彼女は実際ドン引きしている。
瞬間的に沸騰してしまう性格を直さなければいけないと思っていた矢先だった。
ついついやってしまった。
そんな事で彼女は頭がいっぱいだったから下敷きになって唸っている次郎のことなどまったく眼中にない。
「お、重い」
潰れた蛙のような声が聞こえた。潰れてしまった蛙はそもそもしゃべれるはずかないんだけど、彼女はそう思って我に返った。
視線を左右に振る。
赤面する三島。
怒った顔をした例の女性将校。
それからニヤニヤ笑っている綾部軍曹が目に入った。そして、首を起こすと胸の上にゴツゴツした手が乗っていることを確認する。
「む、胸、ど、どこ触ってるのよっ」
かああっと顔が熱くなる。慌てて自分の胸に置かれているその手を掴み取る。そして体を捻らせて顔を近づけたと同時に思いっきりそれに噛み付いた。
駅に次郎の痛切な悲鳴が鳴り響びき、周りの通行人も一斉に彼女の方を向いた。
「いいかげんにしなさい!」
日之出の一喝。
もみ合う二人が固まる。風子に限っては口をぽかんと開けて声のする方を向いた。その口元にある赤く歯型がついた次郎の手が痛々しい。
「はいはい」
手を叩く音。そして風子が自分の上にすうっと大きな影がかかったと思った瞬間、次郎よりも大きくて硬い皮膚の感触のある手で風子の右手が引っ張られた。
「お嬢ちゃん、やるねえ」
風子が立ち上がって、前を向くとヘラヘラした綾部が立っていた。
「坊主、お前は自分で立てよ、痛くねえ、男の子男の子」
そう言いながら次郎のわき腹をつま先で小突く。
はははと楽しそうに笑った綾部。
次の瞬間彼の顔が凍ったのを風子は見てしまった。
音も立てずに綾部の間合いに入る影。その顔は顎を上げ完全に据わった目で綾部を見下ろすように見えた。
綾部の方が背が高いはずだが、小さく見える。
「まずは、綾部軍曹、この騒ぎについて説明」
明らかに怒気を含んだ声で彼女は言った。
数分後、彼女はしょぼんとなった綾部を放置して、子供たちの前に立った。
目と眉が釣り上がっている。
「駅のど真ん中で喧嘩、説明」
二人は彼女の低くて迫力のある声に気負されて言葉に詰まってしまった。
さっきまで綾部軍曹が彼女から「監督責任」とか「なんで止めない」とか散々厳しい口調で説教していたのを聞いていたからだ。
何せ、彼が一つ言い訳しようものなら、三つ以上の言葉と内容で罵られるのだ。だから適当な言い訳も思いつかない。
綾部が「いやー、見てて楽しかったので」なんて口をすべらした時は、彼女の黒髪が静電気を帯びたように逆立ちしたように見えた。
目の錯覚と思えないほどの怒りのオーラに彼女は身を包み、そして鬼の形相で睨みつけた。
整った顔がそうなるものだから、なおさら迫力がある。あんな状況を見れば誰だって怖気づくというものだ。
この子たちも人の振り見て態度をちゃんと変えれるくらいの頭は持っていた。
「原因」
単語を投げかける日之出。
次郎はゴクリと息を飲み込み、意を決した面持ちので口を開いた。
「あ、挨拶をしようとして」
訝しげな表情で見られる。
「ちょっと、じゃれあっていたら」
と、風子が繋げる。
「むきになりまして」
と、もう一度次郎が被せる。
「すみませんでした」
と、深々と頭を下げながら緑が言った。
当事者ではない、むしろ巻き込まれたと言ってもいい緑が頭を下げた。それを見て脱力してしまったのだろうか。日之出は呆れた顔になった。
そもそも、綾部を問い詰めた時にエネルギーを使い過ぎてしまったせいでもある。叱ることもエネルギーが要るのだ。
逆に彼女にとって綾部を叱ることはとても相性のいいガス抜きだったりする。
趣味と言ってもいい。
やった夜は寝つきがよくなるし、シャワーを浴びていると肌の艶もよくなった気がする。
わざわざ子供たちを叱って、抜けたガスを再び溜めたくはない。
彼女は咳払いをして三人を見た。
「まだ、県外組がそろっていないから、しばらく大人しく待っていなさい」
大人しく、を強調して彼女は言った。
さっきの騒ぎから十五分ほど経った今も三人は気まずく黙っていた。
見かねた綾部が三人の頭を「自然体、自然体、青春、青春」と言いながらポンポンと叩いて、離れて行った。
喫煙室に行ったのだ。
きょとんとする風子と緑。
そして目が合って、互いに笑った。
「あの人変」
「うん」
風子の言葉に緑が笑う。
その顔を見て、風子は意を決した。
「三島さんの名前、みどりってどういう字を書くの?」
どうしても緊張気味の声になる。
たった一言、それだけで緊張してしまう。今までの彼女はその一言が出ずに苦しんでいた。
その一言のために凄まじいエネルギーと勇気を必要とした。
言葉に出すことを躊躇っていた。
――自然体。
その言葉を聞いた時、彼女は肩の力が抜けた気がした。
すでに恥ずかしいことをやってしまい、捨てるものがなくなったのも手伝った。
「絵の具とか木とかに使われる緑、糸辺のリョクとも読む、あの普通の緑……です」
彼女は少し恥ずかしげに言った。
緑はあまり自分の名前が好きではない。どうして翠、碧といった可愛らしい漢字を親が選ばなかったのか、そんなわだかまりもあった。
一方風子は普通に緑と聞いて心がときめいた。なんか、すごく良いと心から思ったのだ。
素朴でかっこつけていない、自然な感じ。だから素直に声が出た。
「かっこいい、なんか緑って漢字落ち着く」
その言葉を聞いて、緑は赤面して俯いた。そして少しだけ口元が緩んでいた。
今まで名前についてそんな風に言われたことがなかったからだ。
すごくうれしいと思っていた。
風子は誰にも気づかれないように深呼吸をした。不安が一気に取れていた。
短いやり取りだが、彼女が前もって準備をしていた言葉はぜんぜん出てこなくて、しゃべりながらハラハラしていた。
自然に思ったことをそのまま言葉にして話してしまった。
そして、それがすごく清々しいことだと実感した。
慣れていないのだ。
初対面の人と仲良くなる事が。
だから彼女はこのまま自然に任せて話そうと思った。準備していた言葉なんか忘れて。
風子は少しだけ息を吸った。
「私のこと風子でいいよ。ねえ敬語もなしで。せっかくここで会ったんだし」
「……うん、私も緑でいいよ」
「ありがとう。緑さん」
風子がそういうと、緑は少し困った顔をする。
「あ、さんもやめようよ」
少しためらいがちに緑が言う。
「う、うん、わかった、緑ちゃん」
「よろしくね、風子ちゃん」
意気投合した二人。
次郎はとても置いていかれた気分に浸りながら彼女達を見ていた。そして、二人を見比べどちらかといえば大人しそうな緑ちゃんの方が好みだな、と思う。
中村風子は絶対にないと思った。
ふと、あの手の感触を思い出す。
次郎は右手を見つめお椀を握る形をしたあと、バッと手を開いた。前者は姉、後者は風子だ。
――あれは違う。おっぱいじゃない。おっぱいは掴めるし柔らかいものだよな、姉ちゃんのは、もっとこう……。
もやもやとした気分になりそうになったため、頭を振って妄想を追い出す。
シスコンだからしょうがない。
ついつい、姉と比べる性格は直したほうがいい、そう本人も思っているが、幼いころから植えつけられたものはなかなか払拭できていない。
後日、彼はこの出来事について、ラッキースケベの称号を友達から与えられる。
その時の感触についてこう感想を言った。
――腹筋。
と。
もちろん、その言葉は風子の耳に入り、ぶん殴られることになるのだが、それは後々の話である。