第16話「足フェチって変態さんなんですか」
「前へ」
佐古少佐の号令で学生たちは歩き出した。
二○キロメートル行軍。
十五キログラムほどの荷物が入った背嚢――巨大なリュック――を背負った少年少女達がずらり並んでぞろぞろと歩いている。
天気は晴れ。
春とはいえ直射日光はきつい。
それをまともに受けている彼らの体温はどんどん上がっていた。
ほとんどの学生は背中がベチョベチョになるぐらい汗をかいている。
行軍の目的はただひとつ。
足腰を鍛える。
それだけだ。
自動車が普及しているこの時代にもかかわらず、こんな時代遅れの訓練をしている理由は。
――強い兵士の条件は足腰が如何に強く、どのような環境下でも耐えれるかどうかである。
行軍前の中隊長訓示。
そもそも強い兵士なんかになろうと思っていない学生たちにとっては大きなお世話である。
だから、モチベーションは低い。
五十分歩いて十分休憩。
五十分で三.五~四.○キロメートルを歩いていた。
ただひたすら歩くだけの訓練。
ほんとうは歩く速度を維持する能力や、歩きながら経路を間違えないようにする地図判読能力を鍛えるものだが、彼らにはそこまで求めていない。
今回は教官達が先頭を歩き、速度と経路を維持していた。
だから、ただの歩け歩け大会になっていた。
ちなみに、もし速度に強弱をつけた場合、体力消耗が激しくなり学生達がバタバタ倒れてしまうだろう。
集団で歩くと、そうなってしまうのだ。
だから今回の行軍はこれでも超初心者コースに入る部類であった。
――現役の兵隊はもっと重たい荷物を持って、四〇~五〇キロメートル歩くことができなければならない。
――今回の行軍できついなどと悲鳴をこぼすようでは先が思いやられる。それに、君たちも三年生の卒業前には一〇〇キロメートル行軍が待っている。だから、こんなことでへこたれる場合ではない。
中隊長は学生達がげっそりしてしまうような訓示もしていた。
発破をかけたつもりだったかもしれないが、意識も高くない学生達には逆効果である。
だから、なんとなくやる気が乗らない重たい空気に包まれていた。
歩き出して三時間以上が経過。
距離は一〇キロメートルほど進んでいた。
学生達は荷物で締め付けられてだんだん痛くなる肩や、じんじんしてくる足の裏の痛みに耐えかねて、こんなことをしてお給料もらっている兵隊なんかにはなりたくない、そう思いはじめていた。
きつい。
歩き始めは楽勝だと思っていた者もいる。
ただひたすら同じペースでぞろぞろ歩く苦痛。
面白さもなにもない。そして、慢性的に続く喉の渇きや痛み、そういうものがなかなか耐えがたいものだということを思い知らせていた。
さすがに飽きる。
しかも肩は痛いし足も痛い。
でも、あと数時間もこういう苦痛が続く。
じわじわと体力も気力も奪う訓練。
そんな経験はほとんどない学生達にとって、これは案外しんどいものだった。
次郎が背嚢を降ろす。
解放された肩にジュワっと血が通った。
表面はヒリヒリと痛い。
背負い紐があった場所は、服の色が変わるくらいべっとり汗で濡れていた。そして降ろした背嚢は他の学生のよりも重たさそうな感じで、ゴロンと地面に転がっている。
対戦車地雷。
十キログラムほどあるそれ。
なぜか彼は背嚢に入れていた。
もちろん、対戦車地雷といっても本物ではない。
火薬の代わりにコンクリートが詰められている、模擬対戦車地雷だ。
男女合わせて八人の班。
班にはこの模擬対戦車地雷をひとつだけ渡されていた。
それを学生達で考えて運べ。
そんなちょっとしたスパイスが入れられていた。
「最初はグー」
休憩時間に響く声。
「じゃんけん」
「「「ぽんっ」」」
一発勝負。
もっとも公平な負担の方法。
誰がこのオモリを背負うかのジャンケンだ。そして、その勝負がついた後、次郎はがっくりと首をうな垂れていた。
四連敗。
次郎はジャンケンが弱い。
きっと彼の幸運は、別の何かに使われているからかもしれない。
重そうに横たわる背嚢をげっそりした顔で見る次郎。
この馬鹿みたいに重いコンクリートの塊を背負っていかなければならないと思うと、彼は地面にへたり込むことしかできなかった。
元々の重さが一五キログラムほどあるので、合わせて二十五キログラムになる次郎の背嚢。
彼は気分を変えるため、地面に座り水筒に口をつけた。
「座って休むなんて、情けない」
その声の方向を見上げる。
次郎をロシア娘が蔑むような目つきで見下ろしていた。
「これも勝ちね」
と一方的に言い放ちながら「おーほほほ」と笑った。
きっと『烏の仮面』なんて漫画にでもはまっているのだろうと次郎は推測する。
変な笑い方をするようになったのは、ここ数日前からだということは知っていた。そして、次郎は図書室で熱心に読んでいる姿を見かけている。
だから次郎は、そんな残念なサーシャさんにツッコミを入れずに放置していた。
日本の漫画に影響されて、いろんなお嬢様キャラをやっているロシア貴族。
次郎はロシア貴族と言うものが、痛い人間達の集まりではないかと思うようになってきた。もちろん、彼女だけを見てロシア貴族全部がそうだと当てはめてはいけないことはわかっているが。
そういう訳で、彼はサーシャから目をそらした。
面倒くさいことになることはわかりきっているからだ。
「次郎、ずっと持ってたからきちーだろ、俺が持つわ」
横に腰を下ろした大吉が、水筒の水をゴクリと飲んだ後に話かけてきた。
「ほら」
と大吉は手を出した。
次郎は首を振る。
「全っ然、大丈夫だから」
「むきになるなって」
大吉が次郎の背嚢に手をかけようとするが、彼はぐいっとそれを自分に寄せて拒否する。
「ルールはルール、それにこんなんでヘコタレねーし」
次郎が口を尖らせて抗議すると、大吉がニヤニヤしながら小声で返した。
「甘えていいんだぜ」
「気持ち悪い」
げっそりした顔で次郎が返した。そして、反撃。
次郎は風子の方に視線を動かした。
「いいとこ見せたいだけだろ」
次郎は意趣返しとばかりに、大吉に対して嫌味の成分をたっぷり詰め込んだ。
「ば、ばーか、そんなんじゃねえよ」
じーっと睨みあう二人。
今度は大吉がニヤニヤした顔を向けてきた。
「あの、金髪が気になるんだろ、そんなに張り合ってバッカじゃねーの、手の届かないお貴族様だってのに」
「うるせえ」
――何勘違いしてんだ、だいたいあの女子に対して好意なんてものを少しも持った覚えはない。
と次郎は思う。
大吉は苦笑の混ざった表情を浮かべていた。
――ほんと、こいつはクールそうにしながらクソ熱っちい奴だからな。
大吉がそう思った時「出発、二分前ー」という予告が入った。
歩き始めから二十キロメートルちょっとの位置。
時間にして六時間近くが経っていた。
足の裏の痛みがひどくなっている。
前の休憩あたりから、踏みこむ度にジンジンして痛いのだ。
次郎はさっきの休憩でやっとじゃんけんに勝っていた。
大吉が模擬対戦車地雷を持っているから荷物は軽くなったはずなのに、足の痛みはひどくなっている。そして、肩は痺れたままだし、べっとりした汗が体中を覆い気持ちが悪かった。
「止まれ」
学生たちは教官の指示で荷物を降ろす。
次郎も同じように降ろして、地面に座った。
ブーツを脱ぐ。
もわっとした熱気と湿気に包まれた足が外気に触れた。
なんともいえない快感。
でも、触れるとジンジン痛い。
次郎がまわりを見渡すと、さすがのサーシャも荷物を降ろして座っていた。
いくら軍人家系といっても貴族だ。
こんな末端の兵隊がやるようなことを、さすがのサーシャでもやったことはないだろう。
――こんな訓練やってるのは帝国陸軍ぐらいらしい、ロシアとか米国は機械化部隊が基本だから、歩かないってさ。
同部屋の先輩である潤が昨日の夜、次郎にそう言っていた。
――うちにも軽歩兵補助服があるんだから、歩く必要はないと思うんですが。
そう言ってみると、潤がトホホといった顔で答えた。
――でも、歩けって……帝国陸軍だもん。
そんなことを思い出しながら次郎はサーシャに視線を向けた。
彼女は歩き始めた時とは大きく違って、余裕な表情は消えている。
「ゲイデン、大丈夫?」
女性教官である真田鈴がサーシャに声をかけていた。
彼女に限らず教官達は、具合が悪くなった学生はいないかどうかという確認作業を休憩時間を使ってしていた。
そういうことをしているため、教官は行軍中いっさい休憩はない。
「確か……」
笑顔のままの真田はサーシャの前で屈みこんだ。
サーシャは真田を見るとコクリとうなずく。
「そっか、換えの、あれ、ちゃんと持ってきてる?」
それから二人は小声でぼそぼそっと話しをした。
「……」
普段の声からは考えられないほど小さな声でサーシャが話しをしていたため、内容はまったく聞こえない。
「無理しないように、もうそれはしょうがないから」
はっきり聞こえたのは、教官の声。
「……はい」
「もっときつくなったり、取り替える場合は着替え用の車が後ろにあるから」
真田はサーシャの頭の上に手のひらを置いた。
「男子とか男の教官に聞かれたくないよね……その時は立ち止まって私に話をして、後ろの方には日之出中尉や伊原少尉もいるし」
真田は自分以外の女性教官の名前をあげて笑顔を向けた。
「ありがとうございます」
サーシャにしては珍しく、素直な反応だと次郎は思う。
「気にしない、私だってそういう時はあるから」
姉のいる次郎はその会話を聞いて察してしまった。
サーシャが元気のない理由を。
なんとも言えない罪悪感に襲われる次郎。
これ以上は、詮索してはいけないと思った彼は、視線を別の女子に向けていた。
中村風子だった。
彼女は片方だけ、靴を脱いで座っている。
十キロメートルを過ぎたあたりで、明らかに足を庇う様な歩き方をしている彼女。
少し気になっていた次郎は風子に近づいていった。
「足、大丈夫?」
思い当たる節があった。
道場で散々、そうなった門下生を見てきた。
処置も経験がある。
「そりゃ、痛いけど……何?」
風子はムスッとした顔で次郎を見上げながらぶっきらぼうに言った。
「そうじゃなくて、足、見せてみろって」
「な、な、変態」
「っち、違う、だれが、そんな足見てハアハアするかよ」
「そんな足って……あのねえ、けっこうがんばって気を使っている足なんだけど」
風子も乙女である。
「なんとかできるかもしれない」
次郎はじっと風子を見た。
「靴下、一回も脱いでないだろ」
「だって……脱ぐの、怖い」
「やっぱり……肉刺できてるんだ」
「わかんない、指の先にしかできたことがないから」
風子は中学生のころから、あまりがんばらない靴を履いている。
ハイヒールとかは履かず、スニーカーが多い。
だから、肉刺とかできたことがなかった。
「処置しないと」
「処置?」
「とりあえず、見ないと」
次郎はそういうと彼女の足首を掴んだ。
「じ、自分で脱ぐから」
次郎は一瞬はっとなる。
自分がしようとしたことは、けっこう恥ずかしいことだと気づいからだ。
でも風子はそういうことは想像せず、靴下を脱いだ。
ところどころ汗でふやけた皮膚が露わになる。
「き、汚いし」
次郎は恥ずかしがる風子に構うことなく、その足を裏返した。
道場で女の子とかの足の肉刺も処置していたから、自然と体が動いたのかもしれない。
彼はその部分を見て息を呑んだ。
五本の指の付け根の部分がまるごと水ぶくれのようになっていたからだ。
よくもこんな状態で歩いたもんだ……そう次郎は思う。
――男ってほんと、ちょっとした痛みでひーひー言うよね。
姉によくそう言われたことがある。
――女子の耐性なめんな。
とも言われたことを思い出す。
「痛い?」
「痛くなんか……」
次郎が覗きこむと、風子は恥ずかしそうに顔を背けた。
「無理するなって」
「無理なんかしてない」
彼は慣れた手つきで針を取り出し、それをライターの火で炙った。
水ぶくれに糸を通した針をさし、それを貫通させる。
通した針の糸を、水ぶくれ両側から出した状態で切った。
水を抜き、上からガーゼを被せて固定するために。
上手くいけばすぐに皮がくっついて痛みが取れる。
糸が肉刺の内側を水分を吸いだして、皮膚のくっつきを早くする仕組みだった。
「っつ……」
肉刺の部分に触れる。
「痛い? 大丈夫なら続けるけど……」
「そ、そんなにじろじろ見ないでよ、変態」
「ば……違う、そういうつもりじゃ」
「本当に、痛くない?」
「……ちょっと、痛い、かも」
次郎は針を肉刺の部分にあてがう。
「痛くしないでね」
「……保証はできないけど……なるべく痛くしないから」
「なるべく?」
「けっこう痛いかもしれない……」
「え、ちょっと」
「うまくできれば、ちゃんと破れるから」
「で、でも、上田君もするの初めてなんでしょ」
ここまでひどい肉刺の処置は初めてだ。
いつもは針で水抜きをしてそれからガーゼを貼ることしかしていない。
「……教えてもらった通りやるから」
緊張しているのだろう彼は生唾を飲み込んだ。
「いくよ」
「んっ……」
「ご、ごめん」
「大丈夫……一回突き通したら、楽になるんでしょ……思いっきりやっていいよ、続けて」
「うん」
「……っつ」
「入った……痛くない?」
「少しひりひりするけど……大丈夫」
開けた穴から糸が少し出た状態になるように、端っこを切った。そして、ガーゼをあてがいテープで固定する。
「ありがとう」
風子がお礼を言う。
我ながら、糸の通し方といいテープの巻き方といい、上出来だと次郎は彼女の足をじっと見ながらうなずいていた。
――なかなか匠の技ではないか。
次郎は満足していた。
その一方で風子はお礼を言った後、散々汚い――彼女がそう思っている――足を男子に触れられ、見られたことに対して、羞恥心が猛烈に沸いていた。
彼女はぱっと、次郎から足を離し、そしてブーツを履こうとした。
「もしかして上田君って、足フェチ? そういう趣味の変態さん? 別の女子の足も狙ってたとか……」
次郎が慌てて風子との距離をとった。
――くっそー、なんかむかつく、その反応。
風子は理不尽にもそう思った。
彼女はブーツを履いてゆっくり立ち上がる。
まだ少しヒリヒリするけどさっきよりはましになった足の裏の痛みを確認した。そして、次郎を蔑むように見下す。
「そろそろ、サーシャ見てあげたら、きっと綺麗よ……あの子の足」
むすっとした顔を背けながら、彼女はそう言った。
なんでサーシャの名前が出てきたかはわからない。
どうして、そういうことを言ったかもわからない。
むすっとした顔を背けて、彼女は背嚢を背負う。
「出発二分前ー」
ざわざわと動き出す学生。
次郎は何か彼女に向かって言おうとしたがやめた。
とりあえず、あと一息。
気合を入れて歩かないといけない。
彼は余計なことを考えないようにした。
なんだか、ぞわぞわっとした気分になったから。
彼は前を向いて、また単純な作業に戻っていた。




