第12話「通信は愛じゃ」
部隊実習も残すところ数日。
訓練の日々はひたすら続いていた。
――やっと癒し課目みたい。
そう思っているのは中村風子。
彼女は『通信訓練』と聞いて安堵していた。
――この前の軽歩に乗る訓練は楽勝だったから、あれはあれで良かったけど。
あのことを思い出すと、ついつい顔が揺るむ。
軽歩の訓練といえば、あのむっつりスケベ。
何かと癇に障る上田次郎の情けない姿が目に浮かぶからだ。
そもそも女の子が機械に乗ったりや鉄砲を持って走るなんて言語道断。
筋肉トレーニングにランニング、女子力を落とすばかりじゃないか。
適材適所。
女子力を発揮する仕事は他にもあるだろう、と。
――はー、スリムになりつつあるのはいいんだけど、それ以上にムキムキになるというか……。
「ふーこちゃん、あ……」
遠慮がちで小さな声。
不意の声かけに風子はビクッとする。
同時にその声を発した三島緑は空気を察して一歩下がった。
しょうがない。
ついつい、風子は鏡の前でポージング――地面に水平に伸ばした両腕の前腕を折り曲げ、力瘤を作る姿勢――をとっていたからだ。
無意識のうちに、日々の運動で逞しくなってしまったその腕を確かめていた。
「ち、違う、ほら」
風子は見られて恥ずかしいようだ。
それを誤魔化そうと、いかにも上半身のストレッチをしていたかのように腕を組んだりしている。
「ふ、ふーこちゃん、かっこいいと思うよ、うんかっこいい……あ……」
少しは気の利いた台詞で誤魔化そうと思ったが、緑はそんなに器用な子でもないのでますます墓穴を掘ってしまう。
気まずい。
しばらく沈黙。
耐え切れなくなった風子が口を開き、話を切り出した。
「通信訓練って、なんか楽そうだよね」
急に話題が変わる。
緑も一瞬なんの話かわからず、とっさに反応できない。
だが、間を置いて頷くことはできた。
「う、うん、でも私、話すのは苦手だから」
「体使うよりは、ぜんぜんマシだよ」
「うん」
二人のイメージは『オペレーターのお姉さん』だ。
どっかのロボットアニメとかで、出撃する男子に機械的な声で会話をする女子。
たまに『がんばって』とか『気をつけて』とか言うあれだ。
――かっこいい男子に言ってみたいなぁ。
通信訓練。
女子二人はそんな妄想をしていた。
世の中そんなに甘くはない。
妄想は儚くも打ち砕かれた。
彼女たちはしゃべるどころか、いつもの訓練と変わらないことに気付いていた。
汗だくになりながらひたすら歩く。
しかもお荷物付で。
カランカラン。
風子の手元でくるくる回る鉄製のドラム。
彼女は息を荒くしながら演習場の道路沿い――もちろんアスファルトなんかではない――に電線を引っ張っていっていた。
電話会社のアルバイトではない。
スマートフォンをほとんどの人が持っている時代。
通信と言えばトランシーバーの様な器材で通話をするもの……そう彼女たちは思っていた。
まさか、未だにこういう電線を地面に引っ張って、それを電話器に繋げて通話をするなんて。
そんなことは想像外の世界だった。
「いいか、通信の確保は作戦の要だ、有線、無線両方を駆使することが通信兵の使命だ」
訓練前そういう説明があって、多くの学生がげっそりしていた。
軍隊では常識。
いわゆる無線通信は、有線通信に比べ脆弱なのである。
妨害電波で不通になり、そして電波を出すことで位置を評定される。
だから、有線通信が未だに重要視されていた。
原理は昭和の初期から変わっていない。
二本の電線を電話器と電話器に繋ぐ。
それだけ。
ただ、張るのは人の力を使う。
数百メートルの電線を巻きつけている重たい鉄製のドラム。
これを一人で持って運ぶ。そして、目的地まで線を引っ張っていくのだ。
学生はそれぞれ三人一組を作り、教官又は助教が組長として指揮をする。
そして風子、緑、そしてサーシャの組は教官の伊原少尉が直接指導しながら指揮をとっていた。
「止まるな、歩け」
彼女はその長身と態度、そして言葉とは裏腹な可愛らしいアニメ声で激を飛ばしていた。
カランカラン。
風子は電線が巻かれたドラムを抱えて歩いている。
緑はその線を引っ張りだしながら、出す線の量を調整している。そしてサーシャは引っ張りだされた線を地面から浮かないように設置したり、所々で線を結んで固定していく役をしていた。
――どこが『通信は愛』だよ。
座学で教官のおっさんが『通信は愛』なんて言っていた。
通話しているお互いに置かれた状況もわからないし、電波が通じたり通じなかったりするものだから、相手を思いやる心をもってわかりやすく話をすることが大切だ。
そういう意味合いで『愛』と言っていた。
電線を引っ張るこの子たちには一切関係ないことなのだが。
はあ、はあ。
肩で息をしている。
風子がずっときつい役をするわけではない。
休憩ごとにローテーションして持つ役は代わっている。
ちなみにサーシャ的には不服だが。
彼女は常に、厳しい訓練できつい仕事を選ばなければならなかった。
だからさっきの休憩で緑と交代するとき『私が持って歩く』と言い張っていた。
だが、伊原の『組の役割に上下はない、線を正しく張るのも大切な仕事だ』と言われ、しょうがなく線を引っ張っている。
彼女はとにかく負けず嫌いである。
人よりも厳しい環境を乗り越える。それが勝つことだと教わっていた。
見た目によらぬ根性娘である。
――それを通り越して、ムキになりすぎているんだけど。
風子はそう思っている。
――なんでもできるんだから、そんなにがんばらなくても。
この前、教室の掲示物で一悶着あった。
今週の目標『一日一善』の掲示である。
誰かが適当に油性ペンで書いたものを見た小山が「こんな雑な字で書くやつがあるか、ヤル気がなくなる……誰か上手い者が書け」と注意した。
もちろん教壇をどーんと叩き教室がどーんと揺れるおまけもついて。
みんなで話し合い、上田次郎の字が一番上手いということで、彼に字を書かせることになった。
その時、なぜかサーシャも同じように書き出したのだ。
「なに、そのお坊ちゃんな字」
と蔑みながらサーシャはスラスラと字を書く。
いつのまにか筆を取り出し、墨汁を垂らし習字の勝負になり、審判が入るまでになった。
「サーシャ上手」
「サーシャが旨いな、味がある」
「サーシャちゃんが一番」
という評価、そしてこれからは『今週の目標』の字はサーシャに書いてもらうことに決まった。
勝負に勝ったサーシャは腕を組み次郎を見下し。
「たいしたことない」
と言って高笑いしながら勝利を喜んでいた。
一方小山は「貴様ら日本人としての誇りはないのか」とその結果を見て嘆いていた。
風子は思う。
サーシャは美人でクールなのに、ときどき子供みたいにムキになる。
うん。
そう。
そこがかわいい。
やっぱり今日もムキになっている。
だから、ドラムを持ったときは走るぐらいの速度でどんどん行くし、それでもきつそうな表情は一切見せない。
負けず嫌いも度をこしている。
ひたすら続く苦行。
受けた命令の内容は「三本松の台からネズミ谷まで中道沿いに有線一回路を構成」だった。
普通の言葉で言い換えると「三本松ってところからネズミ谷ってところまで線をひっぱれ」になる。
――それにしても……地名のセンス……。
サーシャのこともあるが、こっちについても風子は声に出してツッコミを入れたくてしょうがなかった。
でも伊原は無駄口を許さないタイプの教官なので、じっと我慢。
――演習場の地名のネーミングセンスのなさは、驚きを通り越して呆れるレベルなんだけど。
さっき見た地図には『中の道』の東は『右の道』西は『左の道』、そして『ネズミ谷』の近くの丘は『ネコの丘』という名前だ。
いったい誰がつけたんだろう。
ワビサビが理解できない直接的な表現が好きな人が付けたんだろうな、と彼女は断定した。
体力的に疲れてしまうといろいろ考えてしまうのだ。
あんなことこんなこと。
無駄に考える。
無駄に脳が活性化する。
カランカラン。
線を吐き出しながら、ドラムが回っている。
彼女達はもう三十分以上は歩き続けていた。
――あー、もう、足がガクガクする。
風子がそう思った時、前を歩いている伊原が足を止めた。
「止まれ。異状の有無を確認」
伊原がそう言って振り向く。
学生三人は自分の体をぺたぺた触って落し物がないかを確認する。そして三人そろって「異状なし」と返事をした。
「荷物降ろして休憩、十分後出発」
無駄な言葉を一切吐くことなく伊原は指示をした後、座っているサーシャを見下ろして話かけた。
「ゲイデン」
「はい」
「線が浮いていない、縛着もしっかりしている」
「はい」
「次は、中村が一番手だ、サーシャを見習って線を浮かすな」
「はい」
と風子が返事をする。
先ほどまでは一番手はサーシャ、そして二番手が緑、三番手が風子――ドラムを運ぶ役――であった。
「ゲイデンは二番手、三島が三番手」
「はい」
休憩。
水筒の水を口につけた後、緑が遠慮がちにサーシャに話しかけた。
「サーシャちゃん、いつも一生懸命だよね」
「別に、やるべきことをやっているだけ」
「すごいなーと思って」
緑は少し目を伏せる。
「訓練……楽しい?」
「どうして、そんなこと」
「ん、だって、いつも全力だから」
サーシャは緑から目を離し、真正面を向いた。
「ゲイデン家の将校は常にナンバーワン」
「え?」
「中隊長なら中隊のどの兵士よりも強くないといけない、連隊長なら連隊ナンバーワン、師団長なら師団ナンバーワン」
「なんでも?」
「ダー、ゲイデン家の人間は、部下よりもすべてにおいて優れてないといけない」
――ロシア人なのに、ナンバーワンって!
――でも返事の「ダー」なんかロシア語っぽい、いやロシア人か。
風子は二人の会話を聞きながら顔を俯かせてむにゅむにゅなる口元をぐっとこらえる。
近畿出身の女子のせいか、風子はツッコミ体質なのだ。
「サーシャは、女の子なのに軍人になるの?」
緑が静かな声で聞いた。
「もちろん、卒業したら国に戻って士官候補生学校に行って、それから将校になる」
「もう、将来が決まっているんだ……」
「もう……というか、ずっと前から……」
サーシャはその後はロシア語でつぶやくが、二人は聞き取れなかった。
この道の先を偵察して戻ってきた伊原がパンパンと手を叩いて合図をしたので会話は終わる。
「休憩終了一分前、出発準備」
三人は立ち上がり、お尻についた砂を払う。
そして、また黙々と有線構成が始まった。
カランカラン。
緑はその小柄な体を目一杯使って、必死にドラムを運んでいる。
サーシャはその後ろで線が絡まないように注意しながら引っ張っていた。
風子は、さっきまでのサーシャと同様に電線を道路の端にやって、目立たないように地面を這わせる。
これがなかなか難しい。
草とか道路の何かに当たって線がすぐ浮いてしまうのだ。そして、二十メートルに一回ぐらいは、道端の草とか、立ち木に電線を結びつける。
そこに手間取っていると、どんどん前に置いていかれ、走る羽目になるのだ。
すでに風子も何度か駆け足になっていた。
緑と風子の息は上がっていた、一方サーシャは平気な顔をして黙々と線を引っ張り出している。
お嬢様なのに、なんでもできる。
得意と言うのは、おてんとう様が贔屓しすぎじゃないのかと風子も緑も思う。
風子も緑も、サーシャのように綺麗になりたい、器用になりたい、と思う。
もちろん彼女が軽歩の操縦については苦手だということは知っている。
そんなもの、彼女の華やかな才能に比べればなんでもないことだと思えるのだ。
だいたい軽歩の操縦なんか、女子に必要なスキルではないのだ。
そういうことを考えながら、ひたすら、同じ作業を続ける。
道路をひたすら進む女子達。
そうしているうちに、彼女達は自然いっぱいの道を進んでいた。
鬱蒼と雑草が茂る谷間。
そこに伸びる坂道の手前に差し掛かった。
例のネズミ谷である。
無駄口だとわかっていたが、質問せずにはいられない。
「伊原少尉、どうしてここはネズミ谷なんですが?」
風子は肩で息をしながら伊原に聞いた。
どうでもいい話だけど、気になる。
気になってしょうがない。
伊原は、特に考える風もなく、さらりと答えを言った。
「ネズミがいっぱいいるからだ」
伊原から帰ってきた言葉はそのままだった。
ひねりも何もあったもんじゃない。
ネズミが出るからネズミ谷。
「だがな」
「だが……」
「ここのネズミはでかい」
ガサガサっと草むらから音がした。
「ちゅー」
「ちゅーちゅー」
「ちゅちゅー」
五匹ほどのの群れ。本当にネズミが飛び出してきたのだ。
目の前の道路を横切る。
大大小小小。
親子ネズミ。
風子は声をあげそうになった。
目の前のネズミが巨大だったからだ。
親ネズミは五十センチ、子ネズミでも二十センチはある。
巨大ネズミはドタドタと走っていく。それを子ネズミ追っていくが、たまに親が止まってきょろきょろしている。
きっと外敵に警戒しているんだろう。
「○×△ー!!」
声をあげたのは風子ではない。
緑でもない。
サーシャだった。
彼女の声にびっくりしたのか、混乱した子ネズミが二匹、彼女に向かって走りだした。
「きゅぴー」
親ネズミが叫び声のような鳴き声を上げるが、子ねずみは止まらない。
母親か父親かわからないが、一匹だけ親ネズミが、方向転換をして子ネズミを追ってきた。
悪循環。
怯えるサーシャに向かい、ネズミが突っ込んでいった。
「いや、いや……」
サーシャが電線を手放して風子に抱きついていた。
一瞬のことで何がなんだかわからなかったが、風子はぎゅっと彼女を抱きしめ返す。
――かっわいい……!。
サーシャの声に怯えて突飛な行動に出た子ネズミ、それを追う決死の親ネズミ。
そのネズミ達に怯え、腰を抜かしそうなサーシャ。
「こらっ!」
風子が子ネズミに向かって毅然とした短い言葉で警告を与える。
はっとした子ネズミは立ち止まる。
その瞬間、親ネズミが器用に二匹の子ネズミの首をパクッと噛んで抱え上げ、他のネズミがいる方に戻っていった。
ネズミはどたどたと草むらの中に消え、その足音も聞こえなくなった。
震えるサーシャ、抱きつかれた風子は電線を持ったまま突っ立っている。
「サーシャ?」
「ね、ね、ねずみ、変態、クルィーサ……」
彼女は母国語でごにょごにょ言いながら、いつまでも震えている。
普段クールで、そして勝気なサーシャとは思えない怯えっぷりに風子は驚く。そしてほわっとした暖かい感情に包まれた。
「かっわいい……飼いたいなぁ、欲しいなあ」
もう一人、いつもと違う反応をする女子がいた。
緑だ。
うっとりしながら、もれる言葉はいつもと違って声に力もあるし、そして音量が違う。
「もふもふしたい、もふもふしたい、もふもふしたい」
連呼する緑は、なんだかやばい目をしている。
スイッチが入ったようだ。
なんだか、ほわほわして春の陽気に照らされたような顔をする風子、そして怯えるサーシャ、涎を垂らしそうな表情でネズミ達が消えた方向をうっとり見つめる緑。
三者三様の姿をみて、伊原は困った顔をしていた。
「サーシャ大丈夫だ、あれは噛み付いたり襲ってきたりはしない」
そう言って伊原がなだめようとするが、サーシャの耳には入っていない。
そういう問題じゃないんだけど、と風子は思う。
サーシャはあのネズミを生理的に受け付けないだけなのだ。
だが、あんなことを言う伊原少尉。
さすが女性なのに『男の娘』とあだ名が付くぐらいだと納得した。
「……」
「あのネズミは食用として軍で飼っていたものだ、それがいつの間にか野生化してこの辺りに生息している、別に人間に襲うとかそういうことはしない、草食動物だしこの辺りの雑草を食べてくれるから、駆除もしていないんだ」
淡々と伊原は説明をする。
「フー」
ネコのような声をだしてサーシャは息を吐いた。
一応、弱気を見せていたが動転が収まり、ネズミに対して強気の姿勢を出したのだ。
だが、もう遅い。
「あの巨大ネズミが、巷のCMとかに出ているご当地キャラの『ちよねずみ』のモデルだ。石川限定のジュースなんかのマスコットにもなっていたな」
学校の自販機の広告欄に飾られたりしている。
「あの、あれ捕まえて、飼っていいんですか?」
いつになく、大きな――興奮気味の――声で緑が質問する。
「学生棟で動物の飼育は禁止」
と伊原。
「緑ちゃんやめて、部屋がたいへんなことになるよ」
と風子。
「だって、もふもふしてるもん」
キラキラした目のまま緑がそう答える。
残念なくらいに成立しない会話。
「ああ、飼いたい、捕まえたい、いっしょにお風呂に入りたい、いっしょに寝たい」
普段大人しい緑が、こんなに積極的な言動をするのを初めて見た風子。
すでに驚きを通り越して、引き気味になっていた。
しょうがない。
もう二ヶ月が経つというのに、こんな緑見たことがないのだ。
そしてサーシャ。
まだ少し震える彼女を風子がよしよししている。
――これは意外……かわいすぎ。
風子は固い材質の作業服をお互いに着ていたが、抱きしめた彼女はなんとも言えないふわふわ感があって、とても心地良く感じていた。
ゴールはテント――正式には天幕という――がある場所だった。
そこには数量の軽歩や軍用車両が置かれていた。
この通信訓練は現役たちの演習の枠組みの中でやっていたのだ。
だから、このような中隊本部が設けられていた。
男子達は、別の場所で現役の小隊に混ざって、銃を担いで地べたに這いつくばり戦闘行動をしていた。
一、二キロ前方で泥だらけになっているはずだ。
それはそうと、彼女たちが天幕に入ると、大きな地図と防弾チョッキを着た副官――日之出中尉――がいた。
「女子もがんばってるな」
と、軽い激励。
彼女たちは「ありがとうございます」と返事をして作業を続ける。
机の上にある、電話機まで線を引っ張っていき、そこに風子は電線を繋げた。
これで終わりじゃない。
点検もある。
彼女は、座学で教わったとおり、受話器を取って呼び出しボタンを押した。
受話器の奥から『ピー』という電子音が鳴る。ガチャっという音が聞こえそして、男子の声が聞こえた。
『もしもし?』
『もし?』
風子が眉をひそめる。
『あの、一小隊です』
『こちら有線組、電話線の点検です』
『あ、どうも』
『音声よし、信号おくれ』
風子は感情を入れず、機械的にテキパキと教わったとおりに点検を進める。これで、向こうから呼び出し音が聞こえれば点検は終わる。
この電話器の向こうの声をこれ以上聞かなくて済む。
『え、何? 信号、え?』
『音声よし、信号おくれ』
彼女はイライラしながら同じ言葉を繰り返して催促する。
『ど、どうすんの、これ。え?』
『お、ん、せ、い、よ、し、し、ん、ご、う、お、く、れ』
『え、え?』
風子の目が細められる。
サーシャが興味深そうに風子を見て、耳をかたむけていた。
『いいから電話器の信号を押してください!』
『あ、ああ、どれだ?……ってか、その声、中村さん?』
――ああ、どうして、出てくるんだろう……こういう時に苛立たせるは、やっぱり次郎だ。
『なんで、上田君なの』
『なんでって言われても、今日はうちの小隊も訓練で、もうすぐ攻撃始めるから、通信を』
『そんなことじゃなくて、あー早く信号押して』
『……へ?』
『いいから、受話器のコードの付け根にあるでしょ、ボタンが、でっぱたやつ、はやく、押して』
ピーと心なしか弱々しく聞こえる。
『信号よし、導通点検おわり』
ガシャン。
乱暴に受話器を置く。その姿を見て、サーシャはじーっと風子を見ていた。
「電話器異状ありません」
彼女は伊原に報告すると「了解」と短く言って、軽く日之出中尉と打ち合わせをはじめた。
もしかして電話機の扱いを男子は教えてもらっていないかっただけじゃないんだろうか。
もしそうなら、風子がやってしまったことが理不尽だったかもしれない。
そう思うと、だんだん恥ずかしくなってしまうのだ。
事情がわかったら謝った方がいいのかもしれない。
そう思った。
「任務終了、撤収は明日」
日之出との打ち合わせも終わったんだろう。
戻ってきた伊原が腕を組んだ状態で話しを始める。
「明日、ここの訓練が終わった後に巻き戻す」
「ええー」
口を開けて驚く風子。
「簡単だ、さっきとは逆にすればいい」
「……っ」
さっきと違っていつもの緑らしく表情だけで驚いている。
「これ、回収するんですか、こんなの」
風子がそう言うと、伊原はニヤっとして答えた。
「エコだ、エコ、こんなの張りっぱなしだと、自然に悪いだろ」
――軍隊がエコだなんて!
風子は声を出しそうになるが、そこはぐっと堪える。
なんだか、自分で電線ひっぱって、それを回収するというのは、悲しい気分なのだ。
「エコは大切だからな。うん」
伊原は、うれしそうに言った。
その日夕方、風子は同部屋の先輩二人といつものように学校の大浴場に行って汗を流していた。
いつもと変わらないメンバー、いつものお風呂の風景。
びっくりするぐらい白い綺麗な肌の女の子が、浴場の洗い場で隣になったことを除き。
「ふーこ」
それは、サーシャらしくない声だった。
風子は泡に包まれたまま、体を洗うをやめる。
サーシャは、自分が写る鏡をジッと見たままシャワーで頭から体を濡らした。
「ネズミで私がびっくりしていたことは誰にも話さないで欲しい」
彼女はシャワーを止め、ボディーソープの蓋を開け、ゴシゴシタオルにその中身の液体を垂らす。
「う、うん。話すつもりはないけれど」
「ぜったいにね」
彼女はそう言うと泡立てたタオルで体を洗い始めた。
自分と違って凹凸が激しいな、と風子はぼんやりと思った。
――これ、男子なら、たまんない体なんだろうな……私はうらやましいだけなんだけど。
「でも、サーシャ、かわいかったよ」
「これ以上かわいくならなくていい」
普通の女子なんかがその台詞を言ってしまったら、社会的に抹消されるはずだ。だが、不思議とサーシャは嫌味でもなんでもないと風子は感じた。
ツッコミ体質だが華麗にスルー。
「約束する」
風子はそう答えた。
「スパシーバ」
サーシャが風子を見てニコッとする。
――天使じゃあああ。
彼女は女子が女子に惚れることも、あながちありえるんじゃないのかなっと思った瞬間だった。
「もう一つお願いしてもいい」
「うん」
「宣戦布告」
「うん、せんせんふこくね」
風子は復唱した。
「そう、宣戦布告」
せんせんふこく。
風子は頭の中でその平仮名を何回か唱える内に、漢字が浮かんできた。
――宣戦布告ですとぉ。
「ちょっと、え? ええ?」
「ふーこ、あなたのことは好き、でもあなたにはいろいろと負けてばかりだから」
「ちょっと、な、何も勝ってないし、ほら、私なんかがサーシャに勝つものなんてないし」
サーシャはニコッと笑う。
「お、おお、修羅場か修羅場か」
「風子ちゃん、ファイト」
風子と一緒にお風呂に来た、先輩である田中純子と長崎ユキが彼女の背中に乗りかかるようにして左右から顔を出す。
「ユキさん、おっぱい重い」
風子が抗議すると、三年の純子が「むきー、オレのは重くないのかオレのは重くないのか」と反応している。
外野の二人を気にする素振りも見せず、サーシャは言葉を続けた。
「ゲイデン家の将校は、負けてはならない。それが例え軽歩の操縦、通信技能、体力であっても」
表情が少し変わる。
彼女は、ちょっとだけ口を尖らして続けた。
「ゲイデン家の女は、狙った男は勝ち取る」
「……」
風子は何も声を出さないが、後ろの先輩二人が「キター」とか「でるぞでるぞ」と騒いでいる。
「ウエダジロウ」
「へ?」
「ふーことジロウ。波長が合ってるから」
「はあ」
「宣戦布告したからには容赦しない、ジロウは私がもらった」
ぐっと拳を握りながら立ち上がる。
なんて侠気のある姿。
泡だらけだけど、と風子は関心した。
――どうぞどうぞ。
彼女はそう答えたかったが、あまりに唐突なことで、心の整理もつかなず「あ、ども」と間の抜けた返事をした。
「戦だな、うん」
頷く純子。
「略奪愛、略奪愛」
普段クールな癖に興奮しているユキ。
二人の先輩が必要以上に喜んでいる。
風子は面倒くさい人に聞かれてしまったことを後悔する。そして、どうしてサーシャはそんなことで宣戦布告をしてくるのかいまいち理解ができなかった。
『波長が合っているから』
――あんな奴と、どこが。
風子はそう思う。
なんで私が上田君とサーシャの間に入る必要があるんだろうか。
私なんか放っておいて、勝手にそういう関係になればいい。
関係ない。
風子がそう思うのも仕方がない。
サーシャの気持ちを理解することなどできるはずがなかった。
そもそもサーシャ自身もよくわかっていないからだ。
なぜ、ぶちのめそうと思っていた次郎にそういう関係を迫ることになってしまったのか、彼女自身、理由がわからないのだ。
明確なのは負けたくないということ。
負けてはならないという気持ちだけだった。
だからサーシャは風子に宣戦布告をした。
「負けない」
彼女は勝ちたかった。
勝たなければ、許してもらえないのだ。
白いロシア海軍の制服を着たゲイデン家の父、そして兄達に。
すべてに勝たなければ。
勝たなければ、サーシャはサーシャではなくなるのだ。
燃えるサーシャ。
混乱する風子。
そして、自分の知らないところで、狩の対象になっている上田次郎。
だれが一番不幸かは言うまでもない。




