第11話「奴隷になりますか、それとも胸を触りますか」
次郎は機械が苦手である。
今どきの高校生にしては珍しく。
電子機器全般の取り扱いが苦手。
電子レンジはチンすると違う食べ物に変化するマシンへと変わる。
テレビはドキュメンタリー番組を録画したと思っていたら、女性が『ギル○~メッ~シュ』とエッチな感じで囁く番組が再生されたりする。
もちろん家族の前で。
姉の不敵な笑み。
母親のドン引き。
父親の沈黙。
機械に触れれば不幸が生まれる
そんな星の下に生まれている。
その機械と触れ合うような訓練を目の前にして、普段不平不満は口に出さない彼は珍しくぶつぶつぶつぶつ文句を言っていた。
モニターの光。
体全体を覆う様な鉄の圧迫感。
近くの音が直接鉄板を通して聞こえる。
どこか遠い音に聞こえる様な独特な感じ。
薄暗く写る床の画像を睨みながら、彼はもがいていた。
軽歩兵補助服。
彼は途方にくれながら、だから機械は嫌いなんだと心から思った。
部隊実習も一週間が過ぎ、基本教練――右向け右、左向け左などを永遠にやる――や体育訓練、そして小銃の取り扱いなどの基礎的な訓練は一通り終わっていた。
駐屯地にある大きな格納庫。
先週は別々であった男子女子。
この格納庫の前で行われる訓練は男女合同であった。
格納庫には、OD――軍隊っぽい緑色――に塗られた、成年男子よりも一回り大きい軽歩兵補助服が整然と並べられている。
そこで学生達に対してその機械人形の教育がされていた。
だが、極東共和国からの留学生、山中幸子――東と言われると気分を害する――は解せない気分になっていた。
教官の林少尉が学生達を前に立って説明をしているが、その教育の内容が解せないわけではない。
「これが軽歩兵補助服、通称『軽歩』、外骨格型で軽装甲の……」
現役の若い兵隊二人で木の棒を抱えている。
そこに吊るしたA1サイズの紙がさっきから林が説明しているチャートであり「次」と言うと、抱えている兵隊がそれがめくる。
でかい紙に説明も絵柄も手書きで描いてあり、手造り感が半端ない。
学生達は、その電子機器があーだこーだ、駆動方式はあーだこーだと聞いている。
最先端の技術を使用しているはずなのに、目の前のチャートが反比例してアナログなものだから、なんとなく拍子抜けをしていた。
それは幸子も同じだ。
だがそれが解せない理由ではない。
「軽歩は補助服の名前の通り、人間の運動を補助する機械であり、着用した者は何も装備していない状態と同様の行動ができる、そして七.六二ミリ小銃弾の直撃も耐えうる装甲も付いているのがこれの特性だ」
軽歩の全体像――もちろん手描き――に『特性』と書いてる説明文を指し棒で示す。
「はい、次」
その合図でチャートを持っている二人は、フンっと気合を入れてめくる。
――なぜそこで気合。
幸子は頭の中でツッコミを入れる。
次のチャートは、なぜか汗だくで困っているような防弾チョッキを着た人間が描かれているページ。
――いちいち、ふざけている様に見えるのは気のせい……?
「従来の防弾チョッキは、人体の主要部分にだけにしか直撃弾を防護できるプレートはなかった。しかもそれを詰め込むと、重さ二〇キログラム以上もあり行動を制約していたが……」
これだ、こういうことに対して彼女は疑問を持っていた。
軽歩と言えば、この帝国の陸軍力の要であるはずなのに、留学生なんかにこうやって説明してもいいのだろうかと。
そしてチラッと同じ留学生のサーシャに目をやる。
彼女はつまらなそうな顔をしてあくびを噛み殺している。
「問題は電池だ、大量の電池が必要だ……あと充電のための発電機」
――ロシア帝国はまだ友好国だからわかるけど、共和国の私に弱点なんかを聞かせて大丈夫なんだろうか。
彼女は敵国の事情までついつい心配してしまうような子である。
――やっぱり、西の奴らは馬鹿だ。
ムスっとした顔のままそう結論付けた。
幸子。
根がまじめであるから、こういうふざけた事は気になってしょうがない年頃なのだ。
一方次郎は、別の事情で我慢の限界に達していた。
チャートの絵がかわいすぎるのだ。
気になってしょうがない。
文化祭の出し物チックな絵。
ひどすぎる。
それだけならがんばってまだ我慢できる。
それを林少尉は真面目に説明してるわ、チャートを抱えるごつくて怖い顔兵隊はムスっとしたまま立っているわ、もうそういう姿が堪らないのだ。
次郎はこういうのに弱い。
もう笑いがこみ上げてきて声を出して笑いそうになってきた。
それを必死に堪えてはいる。
だが、顔の皮膚のしたがむずむずして、どうしても顔がもぞもぞ動いてしまった。
「……おい、上田」
林少尉が、次郎の目の前に立っていた。
「さっきから、お前に質問しているんだが」
――あちゃ。
次郎はそう思ったがもう遅い。
「何ニヤニヤしているんだ、まじめに授業を受けろ」
ペチペチ。
さっきまでチャートを突いていた指し棒で次郎の頭を連打。
「す、すみません」
謝罪の言葉を林は無視する。
「ちょっとこい」
ずるずる首根っこを捕まれるようにして、学生の前に引きづられていく。
「防弾チョッキを着たことがある者?」
手を上げて林が尋ねる。
誰も手を挙げない。
それはそうだ、中学生で軍事用の防弾チョッキなんかを着ていたらいかがなものだと思う。
ちなみに幸子は着たことがあったが、いちいち教官の言うことに反応するような子ではない。
相変わらずムスっとした顔のまま、成り行きを見守っている。
「そっか、では防弾チョッキがどんだけ重いか体験したいもの」
「「なーし」」
さすが、きつい事に対しては反応が早い。学校生活一ヶ月の成果である。
「それでもどれだけ重いか知りたい者」
「「はい!」」
返事も早い。
返事を聞く前から、次郎はもっさり重そうな防弾チョッキを着せられているからだ。
お約束。
「どれだけ運動できるか知りたいです」
とニヤニヤして煽る大吉。
「どれだけ人間が耐えれるか知りたい」
とすました顔で煽るサーシャ。
「そうか、では」
そっけない感じで言う林は目だけ笑っている。
「学生代表として果敢に前に出てきた、上田次郎に試してもらう」
学生、パチパチと拍手。
次郎は出てはいない、ただ引っ張りだされただけなんだけど、と思ったがどうしようもないので観念した。
「腕立て伏せ用意!」
――ほら腕立てはきついだろう。
「スクワットジャンプ用意!」
――ほら、もっと飛べ。
「空気椅子用意!」
――ほら、腰を上げろ。
軽い拷問。
次郎はぜーぜーと息を切らしながら、勘弁してくれという視線を教官と学生に向ける。
「このように従来の防弾チョッキは人の行動に制限を与える、よくわかったかな」
と林がまとめようとするが、すぐに学生の方から声があがる。
「よくわかりません」
と大吉。
「もっと、過酷な環境下でどうなるか知りたい」
とサーシャ。
わいわい。
軍事関連の教育全般にまったく興味のない中村風子、そしてこの雰囲気が解せない山中幸子と他数名を除き学生は盛り上がっていた。
「お前ら、本当に同期への思いやりがあるな」
ははっと楽しそうに笑いながら林は言うが、さすがにバテバテになっている次郎がかわいそうに思えたのだろう。
「ま、こんなところで許してやろう」
と言って、次郎の肩をポンポン叩く。
そして防弾チョッキを脱がせた。
「いいかー、教官の話はちゃんと聞け」
脱ぎ置かれた防弾チョッキをちょんちょんっと叩きながら「体で覚えてもらうからなー」と、怖いことをサラリと言った。
林はチャートに戻り、説明を続けた。
「この軽歩はあくまで補助であり、身につけている物の重さを『無い』様にするだけで、スピードが上がるわけではない、はい次」
チャートがめくられ、軽歩よりもごつい感じがする人型の機械が二つ描かれた絵を指差した。
「うちにはないが、陸軍は他に中歩兵装甲服『中歩』と重歩兵装甲服『重歩』があって、人型の装甲車とか戦車のような働きをする装備もある」
そして、女子達の方に目を移す。
「これによって、女性の前線での活動が可能になった画期的装備だ」
――そりゃーまた、迷惑なものを作って。
大半の女子がそう思ってため息をつきそうになる。
「君達は一年生の間にこの軽歩の操作方法を身につけてもらう、まあ、ちょっとしたコツがあるからすぐに自由に動けるようになるわけではないが……だれでも使えるようになる、自動車運転免許と同じようなものだと思ってもらいたい、あーちなみにコツといのは自転車とか一輪車とかに乗る感覚の、ああいう類な」
つまり、楽勝。
そういうことかなっと次郎は思った。
――機械オンチはあんまり関係なさそうな無骨な兵器だし。
「『習うよりも慣れろ』さっそく装着して今日は歩行練習を実施する」
ええー。
大半が女子は声を出さず、口を開けて嫌な顔をする。
サーシャは目をキラキラさせ、幸子は訝しげな表情のまま、そして風子は腐ったマグロの目をしていた。
反応は人様々。
サーシャは機械の薀蓄などはどうでもいい。
とにかく兵器に触りたかった、乗りたかった。
男子もサーシャと同じ考えの者が多数派だった。
退屈な説明を聞くよりも断然楽しそうなので、ほとんどの者がうきうき喜んでいる。
「では、まずは十分間休憩」
右手でタバコを吸う真似。
――いや、僕達未成年ですから。
さすがの大吉も小声でツッコミを入れるが、林少尉の耳に入るほど大きな声はだせなかった。
案外びびりな大吉。
そうやって休憩しているうちに、幸子がお手洗いから戻ると、次郎と金髪娘のサーシャが揉めているような……いや、一方的にサーシャが攻撃しているような感じで会話、いや言い合いをしているのを見かける。
「ふふふふふ」
サーシャがベンチに座っている次郎の肩を抑えるようにして手を置き、そして彼の目の前に立っちはだかっていた。
次郎はとても迷惑そうな顔をしている。
一方サーシャは地鳴りでもしそうなオーラを漂わせながら笑顔を作っている。
「な、なんだよ」
彼は彼女に気負されてしまったのだろう。
か細い声で言い返していた。
「勝負ね」
「何の?」
「理解できないの? 相変わらず想像力のない脳ミソね」
「おい……」
「あれをうまく使えるかどうか」
「あんな先進的な装備、留学生はだめなんじゃ」
ああ、やっと西の帝国にもまともな考えをする人間がいた。
二人の会話を盗み聞きしながら安心する幸子。
――私たち留学生が触れるはずがない。
そう幸子は思っていた。
確かに四月にあった戦車の研修とか通信関係の取り扱いについては、留学生は蚊帳の外だった。
「ロシア帝国にはこんな装備先進でもなんでもない、あれから学ぶ技術なんていらない」
エッヘン。
そんな感じで次郎を見下ろしている。
「教官は『どうぞご自由に』という感じだった」
次郎はため息。
「教官も面倒くさいと思ったんだろうな、どうせ食下がるんだろ、乗せろーって」
「侮辱? 殴られたい?」
「いや、一般論」
幸子はここにも疑問がある。
サーシャは友好国の留学生のくせして、どうしてこんな風にこの国の男子につかっかているのかと。
それが理解できず彼女は訝しげな顔をしていた。
「私は一般を超える人間」
「あ、そう」
「あ、流した、侮辱?」
「いいえ違います」
ふんっ。
とサーシャは鼻を鳴らした。
「しょうがない、まずはあれをどっちが早く乗りこなせるか勝負」
「いや、しょうがないっていうのも、勝負っていうのもまったく理解できない」
次郎の言葉に幸子は心の中でうなずいた。
――真っ当な反応。
面倒臭げに次郎はサーシャを見上げるが、すぐに目をそらす。
顔が赤い。
ふと気づいてしまったからだ
座った状態で立っている彼女を下から見上げると、胸が強調して見えるのだ。
つい意識してしまう、そんなむっつり高校生男子。
「負けたら?」
顔を上げずに彼は質問した。
赤面してしまった顔をごまかそうと必死である。
「そうね、負けたら私の配下にしてあげる、私が負けたら手を握ってあげる」
「勝負しません」
「……軟弱物」
相変わらず流暢な日本語をあやつるサーシャは、わざと『物』を強調する。
サーシャが一歩下がった。
「おっぱい触らせてあげる」
そう言いながら彼女は上半身を折り曲げ、座っている次郎の顔に彼女の顔を近づけた。
さすがにその仕草は盗み見盗み聞きしている幸子をドキッとさせた。
――やっぱり、西側の人間の文化は退廃的……破廉恥な!
表情を変えることなくツッコミ。
幸子も忙しい。
「いや、奴隷と触るじゃ等価交換じゃないだろう」
と彼はいいつつ、勝負する気が沸いてきた。
おっぱい万歳。
それがたとえこの痛い女子のものだとしても。
しょうがない年頃。
「じゃあ、成立ね」
「ちょっと、日本語わかってるのか?」
「わかるはずないでしょう。ロシア人なのに」
しれっと答えるサーシャであった。
「休憩終了一分前ー! 集合ー!」
週番学生――普通の学校の日直の一週間バージョン――が大きな声で集合をかける。
そして学生が集り終わると、教官の林に対しそのことを報告した。
報告を受けた後、腰に腕を当てた状態で立っている林は、二体の軽歩を指差した。
「それでは、まずは現役兵隊による展示からはじめる、その後実習だ、今日は現役がワンツーマンで付くからしっかり操作を教えてもらえ」
拡声器を取り出し「実施!」と鋭い声で指示をすると、軽歩は動き出した。
学生たちの目の前で二体の軽歩が走って跳んで宙返り……体操選手の様な事をやっている。
急制動、そして匍匐前進、立ち上がった後に二体で向き合い、格闘を始める。
林が「やめ!」と拡声器で怒鳴るような声を出すと、軽歩はスッと間合いを切り学生の前に歩調を合わせて歩いてくる。
「軽歩は兵士への負担が限りなく減らせるように設計されている、展示した者についてもこのとおり」
大げさに軽歩の方に腕を振って注目させる。
軽歩の前の部分が開いて中の人の顔と上半身が出てきた。
「見てみろ! ぜんぜん体力を消耗していない!」
プシュー。
そんな音が聞こえそうなぐらい、前のハッチが開いた瞬間、もわっとした湯気が飛び出てきた。
もちろん中の人は汗だくで、こめかみに血管浮かせ、肩で息をしていた。
しかしながら、痩せ我慢をしているのだろう。
平気そうな、涼しい気な表情を作っていた。
――思ったよりも、我慢強いのかもしれない。西の帝国の人間は……軟弱者ばかりと聞いていたけど。
どうでもいいことをチェックする幸子。
――あ、ぜーぜー言っている。
――ぜってー、やばいってあれ。
次郎と大吉はコソコソ言い合った。
「見てみろ操縦手のこの涼しい顔を、君達もこのぐらいまで上達させる、そのため今日からビシバシやるからな」
学生のほとんどがげっそりした顔をした。
表情を変えないのは幸子、目をキラキラさせているのはサーシャ。
元々げっそりどころか死んだ魚の目をしているのが風子であった。
「わかったか!」
「「はいっ!」」
強制的に『はい』を言わせる『わかったか』である。
「よし」
教官は満足そうな顔をした。
その反面、学生はますますげっそりした顔になってしまった。
学生達は一列に並んだ軽歩、予め示された番号の器材の前に立っている。
幸子はまわりを見渡していた。
――しっかり、軽歩のデータを持ち帰らないと。
そんなことばかりを考える真面目な女子。
一方サーシャは、さっきの休憩時間に整備士のおっさんと仲良くなり、軽歩の中を見せてもらっていた。
すでに、必要な情報は頭の中にインプットしている。
――ま、ちょっとしたお土産にはなるかもしれない。
彼女は機械に強い。
機械の外側や乗り込んで中の方を見るだけで、機械がどういう作りかわかるのだ。
そして次郎。
サーシャのおっぱいが頭にこびりついて離れない。
――賭けてない、賭けてない。
念仏のように唱えている。
そういう三人が並んでいる右横に、中村風子はいた。
次郎は隣の風子をちらっと見てしまう。そして、サーシャのと比べてしまう。しょうがない。一度風子のは触ったことがあるからついつい比べてしまう。
――小さい。
風子はぶるっと悪寒がしたので次郎を睨む。
すでに次郎は目を逸らしているので、その原因に気づかない。
それでも彼女は『何か』という冷たい視線を彼に送った。直感で何かとても理不尽な侮辱を受けたような気がしたのだ。
次郎は次郎で、何でそんな視線を送られなければならないのかと、理不尽に思っていたが、さすがにおっぱい触るような事故起こした後だし嫌われてもしょうがないよな、と思い直す。
しかし、なんか悔しいので、中村がそっぽを向いた後にまじまじと観察する。
今は作業服の上衣を脱いで白のTシャツになっているのだ。おかげで上半身は観察しやすい。
胸はわかった。
他の部位はどうだろう。
男は女の子をそういう目で見ることで立派に逆襲できるのだ、そう次郎は自負する。
えっへん。
次郎は意味もなく胸を張っていた。
「なんか、汗臭くないですか?」
「気のせい気のせい、すぐ慣れるから」
風子は指導に当たっている現役の兵士からなだめられ、嫌々、軽歩に乗り込んでいる。
次郎も乗り込む……いや、彼の感想は入り込むといった感じと言った方がいい。
とにかく中に入ると、思ったよりも窮屈で視界は狭い。そして、ベルトを締めるというより立ったままぶら下がっているような感覚の方が強い。
耳元には無線がある。
『通話要領は座学でやったとおりだ、さっきも言ったが『習うより慣れろ』早速歩行訓練を実施する』
林少尉が無線で放送している。
『要領は簡単だ、重心を腹の下において、ゆっくりと足を出すだけだ……いいか、ただ足を出すだけだぞ』
右の方から順番に『了解』と答えていく。
『中村、了解』の後に次郎が同様に『上田、了解』と言う。そしてその声に被せるような感じで『ゲイデン、楽勝です』と彼女は余計なことを言った。
その後、冷たい声で『山中、了解』と幸子が言う。
『肩の力抜けよー』
林が放送する。そして号令をかけた。
『歩行開始!』
シュコーン。
はじめの一歩。
ズドン。
重量物が地面に落ちる音。
そんな音が数個聞こえると、林はニヤッと笑った。
『自然体だ自然体』
そう無線で放送するが、肝心の倒れた者達には聞こえていない。
なにせそれどころじゃないのだ。
次郎の場合は、モニターに薄暗い地面が写った状態で手足を不器用にバタバタさせている。
サーシャは『きゃあ』と不覚にも声を出した後、何やら怒りの口調のロシア語でぶつぶつ言っている。
現役の兵士が近づくと直接会話モードで話せばいいものの、無線でわざわざ飛ばして文句を言う。
『なに、これ、整備不良じゃない』
怒ってる。
「機械のせいにするな、自分が機械に合わせろ」
サーシャとバディになっている現役の女性兵士が鋭くつっこみを入れる。
「ゲイデン、郷に従え」
『こんな不良品……』
「ゲイデン、他の者はちゃんと歩いているぞ」
もちろんサーシャは周りを確認できないが、ガシャンガシャンと歩いている音は聞こえる。
倒れているのは、サーシャや次郎の他二人ほど、たったそれだけがバタバタもがいていた。
『とりあえず、立ち上がるまで外には出さん、自力でなんとかしろ』
林は無線でそう宣言した。
顔は相変わらず笑っている。
なにせ、数人がこうやって倒れるのはお約束なのだ。
どうしても軽歩と相性が悪い人間がいる。
いつものことなのだ。
その後、午後の時間がぎりぎり終わるまで、次郎達は地面を這いつくばっていた。
そもそも歩けない人間が立てるはずがない。そういう訳で、最終的にはクレーンで吊り上げられて、当初の立ち姿勢に戻してもらい、それから彼らは無事脱出ができた。
汗だくになりながらなんとか這い出ると、もう既に他の学生はいない。
「他の者は着替えに行った」
と整備員の軍曹がニヤニヤしながら言っている。
「まあ、最初はそんなもんだ、みっちり一年鍛えてやるから、早く歩けるぐらいにはなれ」
ははははと笑いながら、待ちくたびれたような顔をして林は言った。
次郎はちょっと休もうと思いベンチに向かう。
彼が汗をぬぐってその方向を見ると、すでに座っているサーシャが、汗のせいでおでこに張り付いてしまっている金髪の前髪を拭きながらぶつぶつ言っていた。
「こんな屈辱」
次郎を睨みつける。
――僕のせいじゃないんだけど。
彼がそう思っても、サーシャには通じない。
「屈辱」
苦虫をかみつぶしたような表情とはこのことだ。
「屈辱」
そういう言葉を三回以上繰り返す。
このロシア娘は本当に日本語が流暢だ、改めて次郎は思った。
「生まれて初めてだわ、こんな屈辱」
――どんだけ挫折の無い人生なんだよ。
そうツッコミをいれようとするが、これ以上関わりたくないのでぐっと飲みこんだ。
「上田次郎」
彼女が指を次郎に突きつけながら、フルネームで呼ぶ。
「あ、はい」
唐突だっため、彼はつい間抜けな声で答えてしまった。
「勝負はお預け、まずは雪辱しなければ……いい?」
「お、おう」
「それにしても情けない男、全然歩けないなんて」
――お前もなっ!
――あなたもでしょ!
建物の影からじっと見ている幸子も次郎と同様に反応していた。
もちろん声に出すとややこしいので、頭の中で反芻させている。
次郎は目を合わせると話が長くなると考え、思いっきり彼女から目を逸らしていた。
「こっちを向きなさい、男らしくない」
サーシャにはそういう彼の気遣いは通じないようだ。さらに悪い状況が生まれてしまう。
次郎はしょうがないという感じで彼女に向かって正対した。
「はいはい」
心の声が漏れてしまう。
目の前のサーシャは腕を腰にあて、偉そうに立っている。彼と同様に軽歩で歩けない女だというのに。
――ま、僕もだけど……だけど、なんでこんなに突っ掛かってくるのか。
次郎はその理由を思い出す。
さっきの勝負だなんだという彼女の言いがかりを。そして、その賭けたものまで思い出していた。
だから、目がそこに行ってしまった。
何度も確認するが彼は健康的な男子である。しかもムッツリスケベの部類に入る男子である。
相手が生意気で面倒くさくて凶暴なロシア娘であっても、健康な男子である彼としてはついつい見てしまうのだ。
ちらっ。
ちらっ。
サーシャは訝しげな目を見る。そのうち、とうとう彼の目線に気づいたのか、慌てて腰に当てていた腕を胸の前で組みそこを隠した。
――自意識過剰か、オープンかと思っていたけど……あの子、一応恥じらいはあるんだ。
相変わらず物陰から見ている幸子はそう思う。
ロシア女子はそういうことにオープンだと思い込んでいた。
そうでなければ、あんな恥ずかしい格好のまま男子と面と向かって話す訳がない。
汗だくの時に、色の濃いブラを付けると恥ずかしいことになる。
――そういや、スポーツのときはスポーツ用の付けないといけないだって、だから女は面倒臭いって、姉ちゃんが道場で言ってたなあ。
シスコン次郎はこういう場面でほっこりしながら、姉の事を思い出していた。
もちろんその映像と共に。
そのため、表情が自ずと情けなく垂れてくる。
決して目の前のサーシャの黒い下着を見たからではない。
――うわっ、酷い。
幸子が端から見て、そう思うぐらい、サーシャの行動は容赦なかった。
「目はだめ、目はああ」
次郎が顔を伏せ、悲鳴を上げる。
「その痛みで忘れなさい」
怒りを含ませると共に、少し上ずった様な声でサーシャは次郎を責める。
彼女は、すばやく彼との間合いを詰めると、右手の五本指を鞭のようにふるって目潰しをしてきた。
その彼女の人差し指が、彼の目を少しだけかすったのだ。
「目はシャレにならないから、いや、まじに痛てててててて」
「シャレも何も、次郎が悪い……えっちなのが悪い」
顔を赤くして怒っている。
「たかだか、下着を確認しただけ」
先月の体育の時間に、飛び跳ねて太ももを露にしていたというのに、それにさっきは前かがみになって、挑発したにも関わらず、どうしてこうも反応が違うのか、そう彼は驚いていた。
「確認?」
ドゴ。
彼の太ももにサーシャのローキック。
「淑女の胸をいやらしい目で見るなんて最低、えっち、えっち、えっち」
「ごめん、連呼しないで、なんか変態と思われたら、もう」
目と太ももを押さえながら悶絶する次郎。
――彼は不幸体質ね……いや、こっちの用語でこういうのをなんていったけ。
幸子は頭の中でメモをする。
――ラッキースケベ、だったかしら。
西側の本で読んだ言葉を幸子は思い出した。
いろんな面倒ごとを引き入れてしまう、そして、報酬は少しエッチな体験。
そんな本の主人公を思い出していた。
――ああ、やっぱり不幸体質。
悲鳴。
更にサーシャの容赦ないローキックを食らった次郎は悲鳴を上げる。
その声だけが悲しく倉庫の中で響いていた。




