ヒーロー、デビュー 1
俺は玄関の扉を開け、重い足で家の中へ入っていった。
すると夕飯の支度をしていたらしい音が止まり、リビングの入り口から妹の陽南花が顔を出した。肩まで伸ばしたセミロングは、料理中のため後ろで結ばれている。
「お帰り、今日は遅かったね?」
クリッとした丸い目が、俺の方を心配そうに見つめてきた。
「ああ、ちょっと放課後残ってて……ゴメンな?」
「別にいいけど……。なんか顔色悪いけど、大丈夫?」
そう言ってヒナカは心配そうに俺の顔を伺ってきた。
「ああ、ちょっと休めば大丈夫だから……」
俺はヒナカに心配をかけまいと、無理やり口角を上げ笑顔を見せた。そしてそのまま、疲労を気取られないよう足早に二階へ続く階段を上っていく。
ようやく自分の部屋へたどり着くとどさりと鞄を床へ落とし、ブレザーもそのままに窓際のベッドに倒れこんだ。
――ようやく、終わった……。
これまでの人生、一日の終わりを無事迎えられたことに俺はここまで深い感慨を抱いたことはないだろう。
……数時間前の、あの死線をくぐり抜けたことが遠い夢の出来事のように感じられた。
ほんの少し休憩するつもりで目を閉じたが、その途端に俺の意識は急速に眠りの中へと沈んでいく。意識が途切れる間際、今日一日に起きた難事の数々が、俺の脳裏をかすめていった……。
帰宅の数時間前……。
「うっ!?これは……!」
手首にしっかり収まる装置に、俺は仰け反った。
――これ以上、これを着けたままにしておくのはヤバイ……!
その直感に従い、俺は即座に装置を外しにかかる。
だが、どうしたわけか装置はガッチリとはまったままビクともしなかった。
「呪いでもかかってんのか、これ……!?」
その様子を、レッドは半ば呆れたように眺めていた。
「単なるロックだから落ち着いて下さい……かなり頑丈ですけど」
俺はなおも装置と悪戦苦闘しながら、
「じゃあ、その外し方を教えてくれよ!」
「それは私じゃ分かりません。でも、『キヨさん』なら知ってるかも……」
俺は一瞬手を止め、レッドへ向き直る。
「キヨ……誰のことだ??」
「私の先輩格です。あの人なら何か分かるかもしれません」
そこまで話したところで、不意にレッドが宙を見上げた。
「……キヨさん?」
「え!?どこに――……」
すかさず食いついた俺を、レッドは黙って手で制した。
「…………」
レッドの沈黙はそのまま数分続き、その間、その真剣な様子を俺は固唾をのんで見守る。
やがて用件が済んだらしいレッドが俺の方へ向き直り、再び口を開いた。
「キヨさんが詳しい話を聞きたがってました。これから基地に行きます」
「き、『基地』……?」
どうやら、また別の場所に連れて行かれるらしい。
「私達が普段から集まっている隠れ家みたいなものです。つかまって下さい」
そう言って、レッドは俺に右手を差し出す。他に選択肢があるわけでもなく、俺は黙ってその手を握った。
「アウス・アング・バズ」
レッドが呪文のような言葉を口にすると、俺の視界は再び歪み始めた。
「基地」は、マンションの一室のような殺風景な空間だった。
「ここが?随分粗末な部屋だな……」
俺はキョロキョロと辺りを見回した。
中央に椅子が何脚か置かれている以外は、気になるものは無い。一応はちゃんとした室内のように見えるが、広さはどんなに見積もっても俺の部屋ぐらいしかなさそうだった。
「正式名称は『安定領域』だ。量子空間での長時間滞在による危険を回避するために、思念体の監視活動の拠点として作り上げた安全地帯だ」
俺は声の方を振り向いた。
すると部屋の隅に、いつからいたのかブルースーツ姿の少年が立っていた。ヘルメットは着けずに傍らに置いてある。
「……?」
随分とこまっしゃくれた口調の子供だ。俺は胡散臭げにそいつを見返した。
「彼女から話は聞いたが、どうも曖昧な点が多くてな……。装置を手に入れたのは君で間違いないな?」
「彼女からって…………じゃあ、お前が『キヨさん』!?」
せいぜい小学校高学年といった小僧を、俺は失望の眼差しで見返す。
そんなあからさまな俺の態度に、小僧は眉間にしわを寄せた。
「何か言いたいことでもあるのか……?」
その子供らしからぬドスの効いた声に、俺の全身は一気に凍りついた。その耳元へ、レッドがボソリと呟きかけてくる。
「……怒ると迫力ありますよ。気をつけて下さい」
――だったらもっと早く言えよ!!
「い、いやいや!滅相もない!!」
山野の前でも、ここまで焦ったことは無いだろう。俺はかぶりを振り、全力で否定する。
俺の態度がいとも簡単に翻ったのを見ると、ブルーから威圧感が消えた。
「……まあいい、本題に戻るか。まずは、この量子空間について少し説明しようか」
本当はとっとと装置を外して帰りたかったが、ここは黙って頷いておく。
「彼女から多少は聞いていると思うが」と前置きし、ブルーは話を始めた。
「あの空間は、物理領域……君が暮らす世界と、精神領域の間に存在する中間的領域だ。空間内は何層にも分かれていて、君が迷い込んだ層は、その中でも最も浅い、物理領域に近い部分に当たる。層が深くなればなるほど精神領域に近くなり、思念体の活動が活発になる」
思念体……確か、あの黒い化け物の事だったか。
「思念体はその名の通り『人間の思念が具現化したエネルギー体』だ。奴等の生成条件は『強い思念が一定期間「継続」して「存在」し続ける事』……これ等を満たすのは、怒りや怨恨のような『負』の感情である場合が圧倒的に多い」
「怒りや怨恨ってことは、やっぱり俺……?」
「思念体は量子空間内の移動は自由に行えるが、物理領域まで出てくることが出来ない。その代わりに、奴等は思いの対象を量子空間内まで引きずり込み危害を加えようとするんだ。そこから考えると、やはり君は誰かに強い恨みを抱かれていると結論せざるを得ないようだな」
やっぱりそうなるのか。だがそうなると問題なのは……
「そう言われても……どこでそんな恨みを買っちまったんだ?」
当の俺に、その心当たりが無いということだった。
だがそのとき、それまで黙って話を聞いていたレッドが口を開いた。
「そういえば思念体が、何かブツブツ言ってたような……」
それで、俺は唐突に思い出した。
「そうだ!あの化け物確か、『そうち、かえせ』って……」
俺の言葉に、それまで平静だったブルーの表情が険しくなった。
「装置?すると、奴らは君からそれを奪うために襲ってきたということか?」
「そ、そういうことになるのかな?」
ブルーの1トーン低くなった声に萎縮し、俺は曖昧な返事をする。
「正直に答えろ。その装置、何者か渡されたと聞いているが、それは誰だ?」
この状況、レッドの尋問のときのようになってきた。
俺はブルーが怒り出さないことを祈りつつ、暗闇で見た光るヒト型のことを今一度説明した。するとブルーは、僅かだが驚いたように目を見開いた。
「子供の背丈のヒト型?すると、その装置は……」
「もしかして、何か心当たりがあるのか!?」
「……いや。ただ、その謎の人物が言った『ロックを解放』という言葉から推察すると、装置はかなり以前から君の手首にあった可能性もあると思ってな……」
俺はゴクリとつばを飲み込んだ。
「ど、どういうことだ……?」
「今までは、謎の人物により装置の機能がロックされていた。だが今回の非常事態で、ロックが解除された。それで君にも装置の力が使えるようになったのではないかということだ」
なら一体いつから「これ」は俺の手首に収まっていたのか……考えるほどに気味が悪い。
「それなら尚さら、とっととこれを外してくれないか?俺だって、好きでこんなもの着けてるワケじゃないんだからな」
ようやく本題に入ることが出来た。
だが、ブルーは黙って腕を組むと、
「そうしたいのはこちらも山々だが……残念ながら現状、それは無理だ」
その言葉ほど大して残念でもなさそうに、サラリと言った。