未来
「蜀団の優勝は、一般クラス3年生の活躍・・・つまりは俺の力なくしては成し得なかった。違うかい?」
羽田暁人は、悠然とそう言った。
以前より少し伸びたように見える髪に長い指を通し、前髪をかき上げる。
印象深い青紫色の瞳が桃をジッと見詰めた。
長身で落ち着いた雰囲気のある羽田には、そんな仕草が嫌味ではなく、よく似合うと思う。
優雅な動作は、普通の女子生徒なら赤くなってうっとり見惚れるところだった。
「みんなの力で得たものだと思います。」
生真面目に答える桃の頬は、もちろん平常どおりだ。
赤くもなければうっとりともしていない桃の様子に羽田はつまらなそうに肩を竦めた。
「そこは嘘でも俺の言葉を肯定して“ありがとうございます!”と言うべきじゃないのかい?」
言われた桃は、そうなんだろうか?と真剣に悩んだ。
「ダメでしょう羽田さん。そんな、桃さんに無理矢理感謝の言葉を言わせるような真似をしては。」
軽く窘めるのは、梨本晴樹だ。
気の弱そうで大人しく、これといった特徴のない地味な印象だった梨本は、体育祭以降見違えるような溌剌とした明るい少年になっていた。
今日は、桃のファンクラブからの定期報告が上がる日だ。会長副会長揃って、桃の元へやってきているのであった。
体育祭後、桃のファンクラブは順調に会員数を伸ばし、運営も滞りないと羽田は言う。
「俺のやる事にミスなんかあるはずがないからね。」
自信満々に羽田は口角を上げた。
「確かに羽田さんは、凄いですよ!」
梨本は純粋に羽田を称賛する。
その言葉に、羽田の耳は赤く染まった。
「いや、その・・・君の仕事も、少しは役立ってはいるし・・・」
「本当ですか!?」
「あ、ああ。」
嬉しそうに梨本は全開の笑みを羽田に向ける。
羽田は・・・目に見えて狼狽えた。
羽田の方が圧倒的に偉そうなのに、どちらかと言えば、梨本が羽田を押しているように見えるのは何故だろう?と桃は首を傾げる。
少し考えて・・・
(まあ、いいわ。)
そう思った。
梨本は嬉しそうだし、羽田も・・・嬉しそうだ。
ならばそれでいいかと桃は思った。
“董卓”という重すぎる前世を隠して、一般クラスで生きることを決めた羽田と、同じように重い前世から逃げていたのであろう梨本。
梨本の前世に、羽田がいつどうやって気づいたのかはわからない。
ただ、怯え小さくなって生きる梨本の姿に、羽田は前世で己が犯した“罪”を見たのかもしれなかった。
今となればわかる。
羽田が桃のファンクラブを立ち上げたのは、きっと梨本のためだ。奇特にも(と桃は思う。)桃を気に入ってくれた梨本が、目立たず安全に桃に近づけるように、羽田は梨本を副会長にして桃のファンクラブを作ったのだろう。
まあ、そこに中学時代の桃との“やりとり”にまつわる羽田自身の思惑もあったのかもしれないが、基本はそうなのだと桃は思っていた。
体育祭後、梨本は桃の靴をキレイに直して持ってきてくれた。
1人で、並み居る武将に怯む事もなく、大切そうに桃の靴を抱えて1年1組を訪ねてくれた姿に、桃はほんの少し見惚れる。
ありがとうございますと礼を言って、靴を受け取った桃に、改めて自分と友だちになって欲しいと申し込む姿は、恥ずかしそうではあったが堂々としていた。
快諾した桃に、感極まって抱きついてきたのには驚いたが、慌てて離れて必死で謝ってくるから桃はもちろん、明哉や翼たちだって怒る事ができなかった。
その後すぐに、話を聞きつけて焦った羽田が駆けつけて来て、大騒ぎになったのだけれど・・・
梨本は、明らかに変わっていた。
その梨本を見て、おそらく羽田も変わるのだろう。
(いや、“彼”は、変わらぬか・・・)
政権を掌握し、権力に溺れるようになる前の董卓は、武勇に優れた将軍だった。
運命の歯車は、彼の手に少帝弁と献帝協を得させ、彼を権力の中枢に押し出したが、そんな事がなければ董卓は辺境の有力な一将軍で一生を終えたのかもしれなかった。
奇しくも再び自分の運命の歯車を狂わせた”存在”と出会った董卓だが・・・
(今度は、彼は、運命に振り回されることはないだろう。)
己を見失わず、変わらぬ己自身で生きていくのだろうと、桃は信じたかった。
そして、それは、同じく運命を狂わされた”献帝”にも言えることで・・・
桃は、今世では、羽田も梨本も、自分の望む道を思うままに歩いて行けるように、心から願った。
こんな風に楽しそうに互いに語り合って、自由な人生を送って欲しい!
「・・・お前もな。」
「え?!」
急に羽田にそう言われて、桃はポカンとした。
なんだ聞いていなかったのか?と呆れたように羽田が眉を顰める。
困ったように笑った梨本が、今度ファンクラブで会報を出す時に、会長副会長で挨拶文を載せる相談をしていたのだと説明してくれた。その際、桃にも一筆原稿を寄せて欲しいと羽田は頼んだのだという事だった。
(頼むっていうよりは、命令みたいだったけど?)
あまりにタイミングよく発せられた、”お前も”の言葉に、桃の心臓はトクトクと鳴っていた。
(私も・・・?)
自分も、自分の心のままの人生を?
・・・自由に?楽しく?
桃は、そんなことを考えたこともなかった。
「桃?」
呆然としてしまった桃を、梨本が不思議そうに覗き込んでくる。
「あ、すみません。ちょっとぼんやりしてしまって。」
大丈夫?と聞いてくる梨本に、大丈夫です!と元気よく答える。
何だか心配そうな梨本がなおも言葉を重ねようとしたタイミングで、明哉が桃を迎えに来た。
体育祭で痛めた足もすでにすっかり良くなって、桃はどこでも1人で移動できると言っているのに、心配性な仲間たちは桃が校内を動くたびに誰かが必ず送迎についてくれていた。
今日も羽田たちとの面談場所であるこの第一会議室に、来るときには隼(馬超)が送ってくれて、面談の終わる時間を見計らって今、明哉が迎えに来てくれたのだった。
「遅くなりました。」
「少しも遅くないだろうが!?」
明哉と羽田が睨みあう。
面白くなさそうな羽田は、それでも仕方ないかと立ち上がった。
「桃!あまり深く考えなくてもいい。”お前の思うように”。それでいいんだ。」
羽田は、そう言って立ち去っていった。
またね。と言って梨本も後に続く。
2人を見送りながら・・・桃は考え込んでいた。
羽田は、桃の書く原稿の事を言ったのだろうと思われた。
しかし、桃には羽田の言葉は違って聞こえた。
今世で、自分の望む道を思うままに歩く人生。
自由に楽しく、生きる人生。
そのどれも、桃は他人にはそうであれと願っても、自身には考えてもみない事だった。
それどころか・・・
「桃?」
考え込む桃を明哉が心配そうに覗き込んでくる。
「あ!ごめんなさい。」
「何かありましたか?また羽田が何か問題を?」
「違います!大丈夫ですから!!」
桃は、ブンブンと首を横に振った。
行きましょう?と明哉を促し歩き出す。
・・・桃は気がついてしまった。
自分が、どんな”未来”も自分の中に描いていないことに。
(私には・・・望む人生なんてない。)
自分の未来そのものを、桃は予想することができなかった。
思わず、立ち竦む。
「桃!?」
やはり、様子のおかしい桃に明哉も立ち止まった。
正面から覗きこんでくる明哉の顔を見る事ができずに、桃は視線を逸らせる。
「桃?」
「・・・明哉は、将来の夢ってある?」
唐突に桃は訊ねた。
明哉の美しい瞳が戸惑うように瞬かれる。
「夢ですか?・・・そうですね。以前言ったように私の両親は医者ですので、両親のように他人の怪我や病を治せる医者になれればとは思っていますが。」
そうは言っても自分には優秀な姉がいて、その姉が両親の病院を継ぐだろうから、自分はフリーで、桃の都合にどうとでも合せられるのだ!と何だか懸命に明哉は主張する。
以前荒岡に言った通り、桃がどんな進路を選ぼうとも桃の傍から離れるつもりのない明哉だ。
ステキな夢ねと・・・桃は言った。
言いながら、顔を伏せる。
「桃?」
「・・・私ね、夢がないの。」
ポツリと桃はそう呟いた。
「自分が、どんな未来を選ぶのか・・・考えられない。」
ギュッと桃は唇を噛む!
顔が上げられなかった!!
・・・そんな桃に、明哉の柔らかな声が降ってくる。
「・・・まあ、大抵の者がそうでしょうね。」
「!!・・・え?」
思わず桃は顔を上げた!
ようやく桃と正面から目が合った明哉は、嬉しそうに笑う。
「私たちの年代では、将来の自分をはっきりと思い描いている人間の方が少ないでしょうね。考えられないのが普通ですよ。」
「・・・普通。」
呆然と桃は呟く。
そうですよと明哉は言った。
ついで、もしまだ決まっていないのなら、医療関係の職種はどうですか?と勧めてくる。
「同じ医師でも良いですが、看護師とか薬剤師とか、仕事も家庭も常に一緒にいられる関係は理想ですよね。」
そう言って、明哉は何だか赤くなる。
普通?と桃はもう一度呟いた。
自分が、どんな未来も考えられ無い事に、愕然としていた心が落ち着いて行く。
確かに、言われてみればそうだった。
桃たちは、まだ15歳だ。
前世の記憶があるとはいえ、今世での将来はわからない。
ましてや、桃たちの前世は三国志時代の武将なのだ。平和な今世に武将何ていう職業は存在しない!!
(自衛隊か他国の軍隊はあるけれど・・・違うわよね?)
五里霧中が当たり前で、明哉のように明確な未来像を描ける方が少数派だ。
その事に安心する。
・・・それは、桃の”悩み”の根本的な解決にはならないのだとは思うが、桃の心は軽くなった。
描けない未来。
でも、誰もが同じ位置にいるのだと思えば・・・。
「桃?」
「ごめんなさい。行きましょう!」
桃は、一歩、歩き出した。




