ホームルーム 1
1年1組の教室は、特別クラスの棟の3階の一番端にある。
この高校は、特別クラスと一般クラスで棟が違う。それぞれ3階建で上から1年2年3年の順になっている。各階は各クラスの教室と選択科目によって用途を自由に使える選択教室2つの計7教室からなり、それぞれの教室の大きさがかなり広いように感じられた。
他に教務と図書館のある管理棟と実験室や芸術教室のある実習棟があり、大小の体育館と入学式が行われた講堂がついている。小体育館の1階が武道場だ。
4つの棟と2つの体育館、講堂、そして広いグラウンドと野球場にサッカー場、テニスコートまで持つこの高校は、都内にあるとはとうてい信じられない広さと設備を誇っていた。
しかもこの他に男女それぞれの寮が完備され、さらに少し離れた場所には演習場という名の広大な第2グラウンドまである。
都外には立派な研修施設まであるそうだ。
(・・・冗談みたいな学校よね。)
桃はこっそり呟く。
この高校に無試験で入れるなんて何の冗談だろう?
文句のない施設と特別クラスの存在により、ここの一般クラスの偏差値はかなり高い。少なくとも桃の第一志望だった高校より高かったはずだ。
第一志望に落ちて、それより偏差値の高い高校に入るなんて、世の中は理不尽に満ちていると桃は思っていた。
・・・きっぱりはっきり現実逃避である。
入学式が終わり、式に来てくれていた両親に挨拶と当分の別れを告げ、ホームルームで担任が来るのを待つ間の桃は、自分の周囲の喧騒とその結果としてクラスの中で酷く目立っているという事実から心底逃げ出したいと思っていた。
騒ぎの中心は、ハッとするような美少女だ。
ふわふわ赤毛の巻き毛を持ったその生徒は、桃が聞きもしないうちに自分の名前は、須賀 理子 というのだと自己紹介してきて、つられて桃が自分の名前を名乗り返した次の瞬間には、ものすごく元気良く話し出した。
「新入生代表ご苦労様!相川さん!すっごく良かったわぁ!!もぅっつ、真っ赤になっちゃって、可愛い!!」
・・・高すぎるテンションに桃は思いっきり引いた。
あの挨拶のどこに、“すっごく良かった”要素があったのだろう?
周囲の視線が・・・痛い。
なのに、どこにも同類はいるもので・・・
「でしょ?でしょ?!桃ちゃん最高だったよね!」
このテンションにのってくるのは、翼だ。
“最高”も有り得ない感想だと桃は思う。
理子と翼はハイタッチなどしている。
可愛い同士の迷(?)コンビが出来上がりそうだった。
利長は他人のふりで、教室の窓際一番後ろの席にさっさと座る。桃のどうにかして欲しいという願いの籠った視線から微妙に目を反らせていた。
桃の席は廊下側の一番前。
一列5人なので翼の席は桃の隣だ。
理子は翼の3つ後ろの席のはずだが、桃と翼の席の間に立っていた。
「いいなぁ。私も名前呼びしたい!木村くんったら何時の間にそんなに相川さんと親しくなったの?・・・ね、相川さん、私も“桃ちゃん”って呼んでいい?代わりに私のことも“理子”って呼んでいいから!!」
女子は2人きりなのだもの、いいでしょう?と言われて桃は仕方なしに頷く。
事実、理子の言うとおりだった。
1組に女子生徒は桃と理子の2人だけだ。特別クラスはどこも似たようなもので1〜2人の女子生徒が40人学級の中に散らばって在籍している。この高校は一般クラスも男子生徒の方が多いが、その比率は男子25人、女子15人といったところで特別クラスのような極端なものではなかった。
どうしてこんな比率になっているのか、桃にはわからない。
わからないが・・・とにかく、女子というだけで凄く目立つのは確かだった。
しかも、理子は美少女だ。
翼と話している赤いふわふわ髪が嬉しそうにはねている様は、とても可愛い。
「・・・えっ?桃ちゃんって普通の人の奥さんだったの?絶対、公主か夫人だと思ったのに!」
意気投合した翼と理子は、いったい何をどこまで話したのだろうか・・・桃が男女比などぼんやり考えていた間に桃の前世の話までしていたらしい。
理子が納得いかないかのように桃に迫ってきた。
美少女は迫る顔まで可愛らしい。
「えっと・・・そう言われても。あの・・・そうだ!須賀さんの前世は何なの?」
狼狽えて桃は逆に質問した。
途端、理子はプーッと頬を膨らませる。
「“理子”って呼んで!」
「え?・・・」
桃は目を白黒させた。
確かに“理子”と呼ぶとは言ったが、いきなり呼捨ては難しいだろう。
少なくとも桃はそんなキャラではないつもりだ。
困って翼を見るが、明らかに面白がってこちらを見ている。
頼りにならないと諦めた。
覚悟を決めて口を開く。
「・・・“理子”?」
恐る恐る桃が呼べば、理子はパァ〜っと顔を明るくした。
翼を除いた周りの男子が理子の笑顔に顔を赤くする。
美少女の笑顔は破壊力も満点だった。
桃のたった一言で、どうやら機嫌は直ったようで理子は嬉しそうに先ほどの答えを返す。
「うん!桃ちゃん!!・・・あのね、私の前世の名前は、孫安、字は尚虎よ!」
(?!)
聞いた桃の表情が固まる。あまりに驚きすぎて、表情が変わらなかった事がありがたかった。
(その名前は・・・)
翼の目が細められた。
そこにはその容姿に不似合いな危険な光が浮かんでいる。
かまわずに理子は言葉を続ける。
「前世の私は、呉と蜀の政略結婚で劉備に嫁いだ、呉の孫権の妹。・・・孫夫人と呼ばれていたわ。」
・・・ざわり、と教室の空気が震えた。
孫夫人は確かに劉備の妻だが、最終的には呉に帰った人間だ。
しかも常に侍女を武装させ、あの諸葛亮に劉備を脅かす存在と言わしめた女性だった。
教室内の全員の目が理子に集まる。
その視線から、つい今し方まで確かにあった暖かいものが消えている。
一種異様な雰囲気に、桃の腕に鳥肌が立った。
「へぇ〜?ここに居るってことは、蜀の人間と認められて俺らと同じ学年に生まれたってこと?・・・それとも、“多少の例外”の方かな?」
からかうように翼が言った。
その口調からも、先ほどまでの理子に対する親しみは・・・消えていた。
「木村くん!!」
思わず桃が上げた非難の声に、翼は「俺のことも、翼って呼んで。」と少しも悪びれずに言ってきた。
翼の桃に対する態度は・・・変わらない。
しかしその事によって確実に教室内の空気を煽り、理子を孤立させようとしていた。
(なんて、性質が悪い!)
利長に目をやるが、切れ長の目はこちらを鋭く観察するだけで翼を止めようという気配は感じられない。
この2人にとって・・・いや、1年1組全員にとっても“孫夫人”は、すんなりと自分達の仲間とは認められない存在のようだ。
「・・・いいのよ。桃ちゃん。」
自分の周囲の者の豹変に・・・理子は少し寂しそうに笑った。
「私だって、どっちだかわからないんだもん。前世の事を思えば無理もないわ。・・・でも、今の私は新入生として、今年この高校に入ったの。前世がどうであれ、間違いなく私は、この1年1組の生徒だわ。」
諦めたようにそう言って、しかし力強く笑う姿に・・・桃は心の中で感嘆する。
昔も今も変わらずに強く、真っ直ぐな女性だった。
(本当に、少しも変わらない・・・)
「桃ちゃんは、こんなことで私を嫌いになったりしないわよね?」
嫌いも何も、まだ好きになってもいないはずだが?
桃は苦笑しながらも頷いた。
・・・だって気がついてしまうのだ。桃に問いかける理子の握った手が、微かに震えていることに。
孫夫人は兵家の孫氏に育っただけに自身も武を嗜む気の強い女性だった。
・・・親子ほども年の離れた劉備に嫁ぐのはさぞ不本意だっただろう。
常に侍女に刀を持たせ精一杯突っ張っていた。
それでも彼女は蜀に嫁ぎ、呉に帰るまでの6年間劉備の夫人として過ごしたのだ。
おそらく今の様に震える体を隠して・・・。
そんな女性を嫌いになれるはずがなかった。
「良かったぁ〜!ありがとう!私達親友よね?!」
そう言うと理子は、桃に抱きつこうと手を伸ばす。
会って10分も経たない人間が親友になれるのだろうか?
考え込んでいた桃の目の前に翼が体を割り込ませ、理子と桃の間を遮った。
桃の前に立ちふさがる姿は、まるで桃を守っているかのように見える。
「邪魔しないで!木村君!!」
怒る理子を翼はどこか冷たい目で見据えた。
「・・・2年の仲西を知っているか?」
その質問に理子は視線を険しくした。
唇を噛みしめ、窺うように桃を見て・・・やがて静かに口を開いた。
「呉大帝、“孫権”・・・前世の私の兄。そして今は私の従兄妹よ。ついでに言えば、“彼女”になれって言われたことがあるわ。」
理子は嫌そうに顔を歪める。
前世で兄妹で現世で従兄妹なんて腐れ縁が過ぎるとそのまま吐き捨てた。
「しかも付き合えだなんて!馬鹿にしているったらないわ!!」
どうやら仲西とはあまり仲が良くないようだった。
「どうしてだ?・・・あれだけの美形なのに、女はキレイな男が好きだろう?」
揶揄する翼をギリッと睨み付ける!
「嫌よ!彼女になんて、なれるわけがないでしょう?」
「・・・何故?」
「“好み”じゃないからよ!!」
怒鳴った理子の答えに・・・翼はフッと笑った。
その体から緊張が解ける気配が感じられる。
「“兄弟だから”と答えるかと思った。」
「前世はともかく今のあいつは、ただの従兄妹よ。」
あんな奴が兄妹なんて、虫唾が走るわ!と理子は憤慨する。
きっぱりとしたその答えに、翼はつまらなそうに肩を竦めた。
「どうやら、その言葉に嘘はないようだな。・・・つまらないな。兄妹だと言ったら、正々堂々と仲間外れにしてやろうと思ったのに。」
心底残念そうに言う。
桃は思わず翼を怒った。
「木村くん!!」
「翼って呼んでって、言っただろう?」
翼といい理子といい、何故呼び方なんかにそれほどに拘るのだろう?
第一そんなことを気にしている状況か?
「仲間はずれだなんて!絶対ダメよ!!」
憤慨して怒鳴る桃を翼は楽しそうに見る。
「やらないよ。そう言っただろう?今でも自分の事を孫権の妹だと思っているようなら遠慮しないけれど、心の中できちんと区別がついているのなら、どうでも良いさ。」
「!?・・・どうでも良いって。」
その言いように桃は二の句が継げない。
翼は本当に理子の事など、もうどうでも良いようで、既に見向きもしなかった。
理子も理子で、翼のそんな言動よりも、自分と桃の間に割り込んで桃との会話の邪魔をしている事の方に腹を立てている。
翼にそこをどいてと怒鳴っていた。
そんな理子を簡単にあしらいながら、翼は呆気にとられている桃の顔を覗き込んできた。
至近距離に広がる可愛い男の顔に、思わず仰け反る。
「桃ちゃんは別だよ。・・・例え桃ちゃんの前世が蜀の人間でなかったとしても、俺は桃ちゃんを仲間外れになんかしないよ。」
「え?」
間近に迫る顔を桃は見返す。
翼の目は真っ直ぐに桃を見詰めていた。
「桃ちゃんの前世がどこの誰であろうとも、絶対俺たちの仲間に引き摺りこむから!・・・俺、桃ちゃんが気に入ったんだ。一目ぼれ?かな?離れないから覚悟してね。」
・・・それは告白なのか?
そんなに明るく笑って言うセリフなのだろうか?
物凄く可愛い翼の笑顔に桃は気圧される。
生まれて初めての異性からの告白なのに、桃が感じるのはドキドキではなく、何故か背中を這い上がる悪寒と圧倒的な敗北感だ。
(絶対、私より可愛い・・・)
しかも“離れない”なんて・・・
「・・・冗談?」
こんな可愛い男の子が、自分に告白など信じられなかった。
「ヒドイ!・・・桃ちゃん。」
涙目になって桃に縋りつこうとした翼だが・・・何故か急に体を反転させる。
翼の避けたその場所に、ブン!という音を立てて黒い冊子が振り落された。
孫夫人の名は、適当です。
尚香にしようかな?とか、孫仁が良いか?とか考えましたが・・・不明なのだから別に何でもかまわないかと思いました。
・・・何で三国志は女性の名前をきちんと書いてくれなかったのでしょうか?
困ります・・・。