ゴールデンウィーク 5
「もっときちんと自分の主の手綱を締めてもらわなければ困ります。」
厳しい声でそう言ったのは明哉だった。
「それは、どちらの事を言っている?」
疲れた表情で聞き返すのは荒岡だ。
前世で、中国史上最も人気のある美丈夫だった男は、今世においても前世と同じくらい美しい顔を・・・曇らせていた。
まるで、台風のように現れて、食事の席をかき乱した覇月のせいで、夕食会はあのままお開きになった。
桃と仲西の交際うんぬんに関する仲西の父の誤解を解けなかった明哉は、かなり機嫌が悪い。
不穏な空気を敏感に感じ取った仲西が、さっさと雲隠れしたこともあって、苛々は募るばかりであった。
八つ当たりを貰う気のない1年の仲間たちも明哉を遠巻きにして近寄って来ない。
そこに、何だか元気のない荒岡が、運悪く通りかかったのだった。
「あなたは、二君に仕えているのですか?」
機嫌の悪い明哉の言葉は、遠慮がない。
辛辣な言葉に、荒岡は唇を噛んだ。
「そんなことはない。・・・今の私の主君は貴志だ。」
周瑜にとって孫策は間違いなく親友であり、主君であった男ではあった。
その孫策が、26歳という若さで命を落とすいまわのきわに、後見を頼んできたのが弟の孫権だ。
以後10年あまり、周瑜は孫権に仕え若き主君を支えて生きた。かの有名な赤壁の戦いを孫権に決意させ、勝利に導いたのは周瑜だ。
周瑜自身もまた36歳という若さで没し、以後の孫権を支えられなかった事に、断腸の思いを持っている。
今世で、荒岡は仲西と同学年に生まれ、それを、運命なのだと思った。
支えきることができなかった前世の分も、仲西を支えようと思う荒岡だ。
思いもよらず、その仲西の弟として再び孫策に見える事となったが、そのことを無上の喜びと感じても、今世の自分が仕えるべき相手としての仲西への想いは変わる事はなかった。
・・・そう、少なくとも、つい先日までは。
「でしょうね。私の言う“主”も当然そちらです。」
言うまでもない事でしょう?と馬鹿にしたように明哉は言い、荒岡を睨み付ける。
「美周郎ともあろうものが、随分情けない姿ですね。己の仕えるべき主君も見失って。・・・臣下のあなたがそんなだから、主があんな馬鹿な真似をするのです。あなたたちが自滅するのはかまいませんが、こちらを巻き添えにしないでください!」
迷惑です!と明哉はビシッ!と荒岡を切って捨てる。
言われた荒岡は、弱々しく笑った。
・・・そう、最近の荒岡は、元気がなかった。
本来であれば、仲西よりも余程存在感があり目立つ男が、ほとんど前に出ない。(まあ、主君よりも目立つことは、それはそれで問題ではあったが・・・)
原因はわかっている。
それは、先日行われた“進路相談”だった。
それまでの荒岡は、普段と変わらない様子だったのだ。
・・・いつもどおりの瀟洒で典雅な、思わず見惚れてしまうような美青年で、その姿形に相応しい深い知識と明晰な頭脳、そして武将としての優れた身体能力をも持つという言語道断な、16歳の少年だった。
そう・・・ただの“16歳”の少年だったのだ。
16歳の高校2年生ともなれば、卒業後の進路を見据えた具体的な目標の設定や計画が必要となってくる。
2年進学時に、当然大学は経済学部を目指す仲西に合わせて文系を選択した荒岡だったが、より具体的な進路をと担任に言われて、悩んでしまった。
立ち竦んだと言っても良い。
「孔明。・・・いや、“多川くん”は、これからもずっと“相川さん”と共にいるつもりなのかい?」
“多川くん”と呼ばれて、明哉はキレイな顔をイヤそうに顰める。
「止めてください!気持ち悪い!!」
鳥肌でも立ったのだろうか?自分の両腕を両手で擦った。
「当然でしょう。せっかく出会えた“あの方”から、私は二度と離れるつもりはありません!」
迷いなくきっぱりと、明哉は宣言した。
荒岡は力なく微笑む。儚い笑みは、現実とは思えない程、美しかった。
「例え、“相川さん”が、どんな進路を選んだとしても?」
荒岡のこの世のものとも思えぬほどの美しい笑みに、当然ながら何の感慨も抱かなかった明哉は、不機嫌な顔で聞き返した。
「・・・何を迷っている?」
荒岡は、息をのみ・・・やがて、ポツリポツリと話し出した。
「私の家は、音楽一家なんだ。・・・」
荒岡の父は、世界的に有名な指揮者であった。母は高名なピアニストだ。荒岡自身も4歳の頃からヴァイオリンを習って、その実力は神童と呼ばれるレベルだった。(荒岡が自分で自分を神童と評したわけではない。聞いていた明哉が思い出したのだ。そう言えば“荒岡 櫂”という名の天才少年ヴァイオリニストがいたな、と。)
前世の周瑜もまた音楽を愛した人物だった。
どれほどに酔っていても、音楽にまちがいがあれば必ずそちらを見ることから、【曲有誤、周郎顧(曲に誤り有らば、周郎が顧みる)】とまでうたわれるほど、音楽にうるさい人物だった。
もっとも、このため、宴席の芸者が“周瑜さま”に見てもらいたくて、わざと演奏を間違えるという事態を引き起こしはしたが・・・
今世の荒岡も、音楽を愛し、小さな頃から自分がヴァイオリニストになる将来を疑ったこともなかった。
13歳で前世の記憶を取り戻し、南斗高校の存在を知り、海外の有名音楽学校の招きを蹴って、この高校に入学した時も、その将来を否定したわけでは決してなかった。
そんなことは、考えもせずに、ただ・・・
前世の仲間と会いたい!
自分が命を賭して仕えた主君に会いたい!!
その一念で、南斗高校に入学した。
入学して、願ったとおり孫権や呉の仲間たちと再会して、喜びの中で荒岡は学生生活を過ごしてきたのだった。
・・・そして、今世の現実を突き付けられたのだ。
1年の時から、時々不安は感じていた。
日本屈指の大財閥の御曹司である仲西の将来は、当然その財閥の当主となることで、そして仲西の描く未来図には、必ず荒岡がその隣にいた。
何の疑いもなく自分を傍らに配して語られる未来図は、周瑜にとっては仲西以上に疑うべくもない当たり前の事で・・・なのに“荒岡 櫂”にとっては、思いもしない予想外の事だった。
戸惑いながらも、目の前の全校制覇の目標を追って1年間を過ごしてきたのだが・・・
先日の進路相談で、卒業後の進路を具体的に、できれば大学、学部名まで決めて提出しろと担任に言われてしまったのだ。(ちなみに仲西は、某有名国立大学の文科二類と小学校の頃から公言している。文科二類と言った段階で某をつける必要性があるのかとは思うが・・・)
“大学進学”としか書けなかった荒岡だった。
担任は、困った顔をして眉を寄せたが最終的には「お前なら、どこの大学でも行けるだろう。」と言って結局それを受け取った。
以来、荒岡は迷っていた。
「永久に陛下のお傍にいたい!だが、ヴァイオリンを捨てる事も私にはできない!どうすれば良いのかわからないんだ。」
知略、武略に優れた、類まれな呉の名将は、迷子の幼子のように頼りなくその場に立ち竦んでいた。
やがて、ふぅっとため息をつく。
「すまない。愚痴を聞かせた。君に言っても何の解決にもならないことはわかっているんだが・・・」
気にしないでくれと荒岡は謝る。
「・・・まったくです。」
明哉は、心底呆れたように冷たくそう評した。
荒岡のキレイな瞳が見開かれる。
「何かと思えば、バカバカしい。つまらないことで、私の時間を奪わないでください。」
「・・・つまらない?」
呆然と荒岡が聞き返す。
フンと明哉は鼻を鳴らした。
「つまらないでしょう?そんなどうでもいいような迷い。・・・かつて前世で、己の采配ひとつで何万、何十万という兵士の生死を左右した我らにとって、そのような悩みのどこに“憂える”要素があるというのですか?」
平和ボケも大概にしなさい!と明哉は一喝する。
荒岡は・・・いや、周瑜はハッとしたように顔を上げた。
確かに前世で、自分は大軍を率い、戦った。
自軍や敵軍の兵士の命を、ひいては国の命運、数多の民草の命をも背負い、戦乱の世を駆け抜けた。
己が手の一振りで散ってゆく多くの命。
その全てに、それぞれの夢があり希望があったはずだった。
「あ!?・・・私は・・・」
自分が、どれほどに“贅沢”な悩みに憂慮していたのかに思い至り、荒岡は顔色を失くす。
そんな荒岡を見やって、明哉はフゥ〜とため息をついた。心底嫌そうにしながらも、荒岡に言葉をかける。
「経営者と音楽家?それがどうしたというのです?まさか、距離が離れることを気にしているのですか?今世の世界は狭い。交通機関の発達で“漢”をはるかに超える世界を自由に行き来できるというのに。・・・生きて会うことのできる距離にいる者に対して、何の心配をしているのか?もう一度頭を冷やして考え直してみてはいかがですか?」
荒岡の迷う心に、明哉の言葉の一言一言が突き刺さった。
「・・・立場が違っても、共に有り、支えることが、できるというのか?」
そんなことは信じられないと言うように、荒岡は訊ねた。
「我らは、生きています。・・・あなたとて、主と決めた方を“喪う”経験を前世でしたはずでしょう?共に生きてこの世にある限り不可能なことなどありえません!」
きっぱりとした明哉の言葉に荒岡は目を見開いた。
・・・確かに、前世で周瑜は友であり主であった孫策と死に別れ、その事に慟哭した。
孫権の存在がなければ絶望していただろう。
・・・それに比べれば、・・・何より、自分の采配で死んでいった多くの兵士に比べれば、自分の今の悩みなどは、悩みと言えるような”もの”ではなかった。
孔明もまた、劉備を先に亡くしている。
明哉にとっても自分の悩みは、本当に悩むに値しないつまらない悩みだったのだと、荒岡は自省した。
それと同時に、その悩みが嘘のようにきれいに消えていくのを感じる。
・・・何も変わったわけではなかった。
自分の進路の悩みがなくなったわけでもなんでもない。
未だ自分は、仲西と同じ大学に行くか、それとも音楽の道を選ぶか、決めることはできない。
・・・ただ、決意しただけだ。
どのような進路を選ぼうとも、自分は必ず仲西の傍に居よう!と。
思い返してみれば、仲西自身も自分の将来像の傍らに荒岡を配してはいても、荒岡自身に何かをしろとは決して言ってはいなかったことに思い至る。
「一杯飲みながら愚痴を聞いてくれ。」とか、「仕事が上手くいったら一緒に祝杯をあげよう。」とかは言っても(本当に酒を飲むのが好きな孫権だった。)具体的にこんな仕事をして欲しいとか、こんな役割を果たして欲しいとは、言われたことがなかった。
・・・仲西の方が、荒岡の事を、よほどよくわかっているのかもしれないとさえ思える。
自分は、何を悩んでいたのだろうと、荒岡は思った。
「悩むのに飽きたなら、さっさと自分の主人の元に行って、しっかり首輪を付けて来てください。桃に指一本でも触れたら承知しませんよ。」
荒岡の雰囲気がなんとなく変わったことに気づいたのだろう。明哉はそんな事を言ってきた。
生まれ変わっても、聡明な男に荒岡は感嘆する。
晴れ晴れとした気分で、荒岡は笑う。
「既生瑜、何生亮。(天は何故、私をこの世にうまれさせながら、また諸葛亮をも生まれさせたのか)」
楽しそうにそんなことを言ってきた。
明哉は、忌々しそうに舌打ちを零す。
三国志演義の中で、死に瀕した周瑜が言ったと語られるその言葉は、まるっきりのでたらめだった。
確かに、周瑜は劉備の力に脅威を覚え、劉備を拘束せよと主張はしたが、演義に語られるほどの敵意を劉備や孔明に持っていたわけではなかった。
ましてや死にぎわに自分の不幸を天の采配のせいにするなどと絶対するはずがなかった!
横目で自分を睨む明哉に向かって、荒岡は楽しそうに話す。
「天に感謝しよう。君を私と同じところに配してくれたことを。」
明哉は、びっくりして目を見開いた。
現れた時とは別人のように、軽い足取りで、荒岡は去って行く。
ニヤリと明哉に笑いかけた笑顔は・・・とてつもなく美しかった。
明哉はフッと息を吐く。
既に夜も更けていた。
今日は寝るしかないなと、こめかみに手をやる明哉だった。




