オリエンテーション合宿 14
「流石だな。」
1組の本拠地に入り込んだ天吾が、明哉に話しかける。
・・・本拠地とはいっても、守備を捨てたそこを守る者は誰もいず、明哉以外の人の姿は見えなかった。
かなり広い陣地は、周囲の喧騒に反して・・・ガランとして静かだ。
中央に立てられた旗の、風に翻る音が、バタバタと大きく響いている。
雑然と置かれた武器や道具が入っているだろう箱に白い布がかけられて並んでいて、なお寂寞とした感を呈していた。
箱の脇に繋がれた2頭の馬は、桃の的盧と明哉を選んだ賢そうな黒馬だ。
戦乱を他所に、のんびりと草を食んでいる。
・・・桃は、どこにいるのだろう?
姿は見えぬが、的盧が此処に居る所を見れば近くにいるのだと思われた。
(トイレかな?)
と天吾は思った。
流石に口に出して訊ねる事は、しなかったが・・・
「予定どおりなだけです。」
天吾に対する明哉は・・・冷静だ。
3組を従えた事を喜んでもいない。
それは明哉にとっては、成るべくして成った、当たり前の結果だった。
天吾は苦笑する。
「しかし・・・守備をしないとは、無防備にすぎるのではないか?誰が何時此処に攻め入るかわからないとは思わないのか?」
天吾の言い方は・・・”何か”を含んでいた。
「誰が?・・・」
チラリと天吾を見ながら明哉が聞き返す。
「・・・例えば、“俺”とか?」
笑いながら言う天吾の後ろには、2組の生徒数名が居た。いずれも体格の良い偉丈夫ばかりだ。
平凡な容姿の天吾は、すっかり埋もれてしまっている。一番前に立っていなければ、この場に居るのにも気づけそうになかった。
「確かに、今あなたの後ろに居る人たちに攻められれば、私も桃も呆気なく倒されてしまいそうですね。私はともかく、桃を倒されれば、1組の負けは決定します。」
淡々と明哉は語る。
そこには、焦りも不安も一切なかった。
「何故、そんなに落ち着いている?俺が文菜のあんな脅しに屈して、言いなりになるとでも思っているのか?」
「まさか。」
明哉は肩を竦めた。
確かに・・・歴史の陰に女性の存在があることは多い。傾国の美女と呼ばれて、一国を傾けると評される女性もいる。
しかし・・・男は、それほどに単純な生き物ではなかった。
どちらにするか迷っている時ならば、気まぐれに、気に入った女の勧める道を選ぶこともあるかもしれない。しかし、最初から方針を決めて事を運ぶ場合に、女の意見で左右されるような男は、いないだろう。
文菜に笑いかけてもらえないのは、間違いなく辛いが、だからと言って、みすみす学年制覇の機会を逃すような“龐統”ではなかった。
「ならば何故!そんなに落ち着いている!俺の合図ひとつで1組は潰れるんだぞ!?」
明哉は、怒鳴る天吾に顔を顰めた。
「うるさい。」
自らのひとさし指を1本立てて、男のくせにやけに紅い己の唇の前に立てる。
「静かにしないか。・・・桃が起きてしまうだろう。」
「はっ?」
天吾は、虚を突かれた。
(こいつは、今、何と言った?)
明哉がそっと目で示す先を見れば・・・物陰に、花柄の折り畳み式ラウンジチェアがひろげられ、その上でスヤスヤと眠る、桃の姿がある。
「?!なっ・・・」
明哉は、その桃を、前世では考えられなかったような優しく、熱のこもった目で見詰めていた。
「疲れているのです。いくら得意だからといって旗25本分の刺繍は並大抵のことではありませんから・・・しかも彼女は、私たちのために、今朝早くに起きて、携行食だといって、パウンドケーキを焼いてくれたのですよ。」
・・・パウンドケーキといっても、市販のホットケーキミックスにナッツやハム、チーズを混ぜて焼くだけの、ごく簡単なものだ。
戦うつもりのひとつもない桃は・・・実は少し引け目を感じていたのだ。
自分が軍の編成をしたことなど、桃にとっては大したことではない。刺繍だって自分の暇つぶしだ。
一日弓の練習をして、少し日に焼けて戻ってきた理子を見て、桃の罪悪感は大きくなった。
小心と言うなかれ、桃は結構気配りのできる心優しい少女なのである。
携行食は、一種の罪滅ぼしだった。
桃としては、“中華ちまき”あたりを作りたかったのだが、相談した横山に衛生許可がどうのと言われて、あきらめざるをえなかった。
それに比べれば、パウンドケーキなど桃にとっては、何ほどのものでもなかった。
(もちろん!それを渡された1組の生徒の喜びようは、この上なかった!)
・・・そのパウンドケーキには、物凄く興味を惹かれるものがあったが、天吾は、その前の“旗”という言葉に注目する。
「旗・・・?」
旗25本分の刺繍とは、只事ではなかった。
明哉は、本拠地に翻る自クラスの旗を指差す。
旗に刺繍された金字の“漢”が風をはらんで輝いていた。
「1本1本、桃が刺繍をしてくれたのです。・・・誰であれ、あの旗を蹂躙する者を1組の生徒は、決して許さないでしょう。」
静かではあったが、明哉の言葉には力がこもっていた。
天吾は、旗を見、明哉を見・・・桃を見詰める。
心の中で、唸った。
「それなら、猶更、何故こんなに無防備なのだ?1組を潰し、この旗を奪う事など今の俺には造作もないぞ。」
明哉は、ニッコリと笑った。
「理由は、2つあります。」
「2つ?」
毒気を抜かれて、天吾はオウム返しに聞き返す。
「1つは、現実的なものです。・・・天吾、あなたとあなたの手の者は、私と桃を倒すことは、できないでしょう。」
「バカな!」
ここには眠っている桃と明哉しかいない。
明哉1人で天吾と彼の仲間たちを倒せるとでもいうのだろうか?
明哉は、更にふわりと笑うと、手を優雅に翻す。
そこに、前世の孔明がよく持っていた羽扇の幻を見て、天吾は頭を振る。
軍師の持つ羽扇は龐統とて使っていたが、孔明ほどそれが似合った者は、いなかった。
明哉の手の動きに合わせて、桃の側に立っていた的盧がゆっくりと移動する。
的盧の動きに合わせ、脇にあった四角い大きなものに被せてあった白い布が取り払われた。
そこに現れたモノを見て、天吾と2組の仲間の顔が驚愕に固まる。
「・・・弩?」
それは、孔明が発明したと言われる”連弩”であった。
”弩”とは横倒しにした弓に弦を張り、木製の台座の上に矢を置いて、引き金を引く事によって発射される形式の武器である。
当然のように、普通の弓に比べて初速が速く矢も重く太いため飛距離・貫通力に優れ、照準を合わせやすく命中精度にも優れている。
一度に複数本の矢を撃ち出す型式の弩を”連弩”と呼ぶ。
そこにあったのは、地面に設置して使う床弩と呼ばれる武器だった。
大きく凶悪な矢が、天吾たちを狙っている。
冷たい汗が、天吾の背中を滑り落ちた。
「武器は、剣でも弓でも好きなモノを選んで良いのですよ。」
楽しそうに明哉が言う。
「だからと言って!これは反則だろう?」
「許可は取りましたよ。自ら創意工夫をする分にはかまわないそうです。」
・・・無茶苦茶だった。
明哉は、自分の合図で黒馬が動けば、自動的に矢は発射されるのだと説明してくれる。
「これだけの近距離です。逃げる事はできないでしょう?朱液もたっぷり含ませてあります。・・・あっという間に全身朱色に染めて差し上げますよ。」
天吾と、その仲間の顔が蒼ざめる。
確かにこれでは、桃を討つことはできなかった。
「・・・2つ目の理由は、精神的なものです。」
かまわず明哉は説明を続ける。
「”士元”・・・あなたが桃を裏切るはずがありません。・・・あなたが、桃に”嫌われる”かもしれないようなマネをするはずがありませんから。」
グッ!と天吾は詰まった。
明哉は晴れやかに笑う。
「あなたに限らず、他の誰であれ、蜀の武将であれば、桃を裏切れるはずがありません。・・・違いますか?」
明哉の言葉に・・・天吾は、返す言葉がない。
明哉の言うとおりなのだという事を、あらためて思い知る。
文菜に笑いかけてもらえないのは我慢できても・・・桃に軽蔑されるのは耐えられそうになかった。
「桃は、私が2組を信じて守備をしないと言っても、反対しませんでした。・・・桃も2組を・・・士元、あなたを信じているということです。私には、あなたに、その信頼を裏切ることができるとは思えません。」
まったく、明哉は・・・孔明は口が上手い。
天吾は、呆れ果てた。
「その割には、何だ、その弩は?それが信じている奴のすることか?」
「何事にも、保険は必要でしょう。・・・居安思危。思則有備。有備無患。・・・安きにありて危うきを思う。思えばすなわち備えあり。備えあれば憂いなし、です。」
「孔子かよ!」
天吾は、毒づいた。
明哉は再び口に、ひとさし指を立て、「しっ!」と注意する。
天吾は、あわてて桃を見た。
少女は・・・気持ちよさそうに眠っている。
・・・もう、何もかも、すっかり負けた気分だった。
明哉にも、桃にも、敵う気がしない。
(もっとも、俺も、元々勝とうなんて思っちゃいなかったんだろうな・・・)
確かに、模擬戦には勝ちたかった。
勝って、体育祭までの暫定とはいえ1年を統べる事は、龐統のような軍師には腕の見せどころとして、たまらない魅力があった。
孔明に勝つという事にも・・・惹かれた。
”伏龍” ”鳳雛”と並び称されていても、若くして死んだ龐統は、孔明に比べれば人気も知名度も極端に低い。
諸葛亮を知らない者は無く、龐統を知る者は少ない。
ここで孔明を負かして奴の鼻を明かしてやりたいと思わない程、天吾は聖人君子ではなかった。
しかし・・・そんな天吾のちっぽけな功名心を明哉と桃は歯牙にもかけない。
現実に、打つ手を全て封じておいて・・・”信じている“と言ってくる。
勝てるはずがなかった。
・・・そして、その事がイヤじゃないあたり、天吾の心も知れている。
(負けたな・・・)
晴れ晴れとした気分で、天吾は思った。
「・・・それにしても、だからと言って、この場で寝るか?この”農民の妻”は、一体どんな神経をしているんだ?」
揶揄するように言って、天吾はため息をつく。
学年の誰もが戦っている中で眠る桃は、確かに不謹慎と、とられても仕方がなかった。
「・・・彼女にとって、こんな“模擬戦”など、子供の“遊戯”と同じものなのですよ。」
明哉の言葉は、静かな本拠地に響いた。




