オリエンテーション合宿 8
馬術競技が終わり、夕食までの空いた時間に桃は自習室に来ていた。
夕食後はまたクラスごとに集まって模擬戦の作戦を立てる。
夕食までの、この貴重な空き時間が他の教科の勉強時間だった。
・・・忘れがちではあるが・・・桃たちは高校1年生だ。
学生の本分は勉強である。
軍学ではない“勉強”だ。
当たり前のように、他の教科でも課題はあり、その提出期限は明日に迫っていた。
ガランとした自習室を見渡し、桃はそっとため息をつく。
・・・どこの豪華ホテルかと思うような研修施設で、生徒は全員個室を与えられている。
自習室を使う生徒は少なかった。
桃だって本来なら自室でじっくり勉強したい。
だが、桃が自室にいると必ず誰かが部屋を訪ねてくるのだ。
理子だったり、翼と利長だったり(男子は1人では女子の部屋を訪ねないというのが暗黙の了解になっているようだ。)引っ切り無しの訪問者に、ついに桃は自室から逃げ出した。
誰にも見つからぬように自習室に来て・・・桃は思わぬ人物を見つけた。
5組の戸塚健太・・・魏の“許褚”である。
大きな体を丸めるように机に向かって・・・うんうん唸っている。
そんな姿でも戸塚の鍛え抜かれた肉体は異彩を放っていた。
分厚い胸板。服の上からでもはっきりわかる隆々とした筋肉。
巨漢と言っても太っていると言うイメージは少しもなかった。
その肉体には無駄な贅肉など一片たりともありはしないのだろうと思われた。
(父さんの好きなアメリカのプロレスラーに似ている・・・)
桃の父はプロレスファンで、よく海外のプロレス番組を見ている。内容はともかく、レスラーの鍛錬を積んだ強固な肉体には感心していた桃だった。
おそらく、これこそが翼の理想の体なのだろう。
確かに感嘆せざるを得ない体だった。
桃は・・・空席が沢山あるのに、側に行くのもおかしなものだし、かと言ってあまり離れれば、避けているようにとられて失礼だしと・・・暫し逡巡してから、微妙な距離をあけて近くの席に座った。
課題の問題集を開き・・・解き始める。
内容は中学の復習なのでさほど難しくはない。
桃は、課題に集中した。
・・・どのくらい時間が経ったのだろう?
「・・・ダメだ!わからん!」
うなり声混じりの言葉が聞こえて、桃は顔を上げた。
・・・戸塚だ。
思わずそちらを見れば、丁度顔を上げた戸塚と目が合う。
咄嗟に・・・笑いかけた。
何故か戸塚が顔を赤くする。
(・・・違う?夕日のせい?)
時刻は夕刻にかかり窓から夕日が差し込んでくる。そのせいで戸塚の顔が赤く見えるのだろうと桃は思った。
「・・・数学ですか?」
戸塚の開いている問題集を見て、桃は声をかけた。
「あ?・・・あぁ。」
見れば問題集は、ほとんど空欄で字の書かれている箇所はまったくと言っていいほどない。
桃が入って来た時も確か数学の問題集の同じようなページを開いていたように見えたのだが・・・
桃は・・・思わず立ち上がって、戸塚に近づいた。
巨体を丸めて、桃から問題集を隠すような格好をとる戸塚にかまわず、上から覗き込む。
・・・やはり、ほとんど白紙だった。
(そういえば・・・2年留年しているって・・・でも、これは中学の問題よね?)
少なくとも最初の数問は、簡単な計算問題のはずだ。
桃は2、3度、瞬きをした。
「・・・どこが、わからないのですか?」
つい、口に出ていた。
戸塚は、驚いたように桃を見て・・・諦めたように巨体を起こすと「全部だ。」と唸った。
「全部?」
「数学なんぞ、ちんぷんかんぷんだ。こんなわけのわからない学問など、俺の手には負えない。」
なんだか戸塚は偉そうに言った。
「?・・・でも、兵や馬の数は数えられますよね?」
「当たり前だ!!」
バカにするなと戸塚は怒鳴る。
別に桃はバカにしたつもりはなかった。
戦い・・・しかも兵を率いての戦いは、しばしば数学を必要とする。
よい例が“ランチェスターの法則”だろう。
“ランチェスターの法則”とは、戦いを数学の公式で表したものである。
要は戦争にも数学が使われているということなのだ。
難しく考える必要はない。
例えば敵より少ない戦力で戦う際に、相手を分断したり陣形を薄くさせたりして、部分的に戦力差を反転させて勝利を得ることも数の論理を使って戦っているということだ。
許褚は、三国志でも1、2を争う強い武将だ。
その強さは、個人の勇力によるところが大きいとはいえ、出世して最終的には牟郷候に封じられている。
戦いの中で当たり前に数学を使っているはずなのだ。
(気がついていない?・・・というより、何かに引っ掛かって進めないの?)
「・・・何でそんなに数学が嫌いなのですか?」
「わけのわからないことばかりだからだ!・・・中でも、マイナスにマイナスをかけるとプラスになるというのが、一番わけがわからない!!」
桃は・・・びっくりして目を見開いた。
(そんなところからなの・・・?)
納得しないと進めない性格なのかもしれない?
そういえば、胸騒ぎがするからと休日を返上して曹操の護衛にあたり曹操の危機を救ったと聞いたことがある。
何かに引っ掛かるとそれに拘る性質なのだろう。
「・・・“典校尉”と勝負をされたことがありますか?」
唐突に桃は言う。
考えながら話された桃の言葉に、戸塚はきょとんとした。
“典校尉”とは許褚の前の曹操の親衛隊長だった“典韋”のことである。許褚とどちらが強いかと比べられる程の猛将だ。
「いや、残念なことにお手合わせ願う機会はなかった。」
訝しそうにしながらも答えた戸塚に桃は突拍子もないことを話し出す。
「例えば・・・牟郷候が典校尉に借金をしていたとします。・・・たまたま飲んだ時に手持ちが無かったから借りたとかそんな事情です。」
戸塚は・・・この女は何を言い出すのかと不思議に思ったが、前世でそんなこともあったかもしれないと思い、黙って頷く。
「借金なのだから、マイナスです。・・・ここで典校尉が飲み比べをしようと勝負を持ちかけてきたとします。あなたが勝てば借金を棒引きにした上で、この勝負の飲み代も自分が持つという条件です。」
「いかにも、典殿が言い出しそうなことだな。」
典韋は、飲み食いが大好きであった。酒や食事をはしから平らげるので曹操が感心したと伝えられている。
うんうんと頷く戸塚に、桃は話を続ける。
「ところが典校尉は、勝負の前にいささか飲み過ぎておられたのです。結果この勝負は、牟郷候あなたの勝ちとなった。」
戸塚は、自分が勝ったと言われて嬉しそうに相好を崩した。
桃も笑う。
「典校尉にとってはマイナスです。マイナスのあなたとマイナスの典校尉が勝負をして、あなたは借金を棒引きしてもらえたばかりか、この勝負の飲み代もおごってもらえることになった。・・・プラスですよね?」
戸塚は・・・ポカンと口を開けた。
「いや・・・確かに。・・・しかし?」
「難しく考えることはありません。そんなこともあるのだから、マイナスかけるマイナスはプラスでもおかしくないのだと思えればいいだけです。・・・ね?」
もちろん、この例えは違う。
だが、そんなことは大きな問題ではなかった。
戸塚だって本当はわかっているのだ。だが、自分が納得できないために進めなかっただけだ。
桃は戸塚に、戸塚の納得できる理由を示しただけだった。
戸塚は考え込み・・・やがて大声で笑いだした。
「そうだな。・・・そんなこともあるか。そう思うことにしよう!」
桃も一緒になって笑う。
一頻り笑って、戸塚は楽しそうに桃に話しかけてきた。
「良い奴だな、お前は。気に入った。名は何という?」
「?!」
自分を知らないのかと桃はびっくりする。
驚いてから、自分も相当驕っているなと反省する。
・・・許褚にとっては、新入生の事なんて興味の対象にすら入らない事なのかもしれなかった。
(本当に曹操しか見ていないのよね・・・)
内情を探られたりする心配がない分、良いのかもしれないが・・・
「・・・1組の“相川 桃”です。」
「そうか。“桃”か。・・・良い名だな。俺は5組の戸塚健太という。前世は・・・いや知っているのか、先ほど俺を“牟郷候”と呼んでいたな。」
もちろん知っているが・・・どうしていきなり自分は、名前で呼捨てにされているのだろう?
確かに戸塚は2コ年上ではあるが・・・
思わぬ展開に桃は内心首を傾げる。
「俺を許褚と知って臆せずに話しかけてくるところも気に入った。・・・“桃”、俺の妻になれ。」
「はっ?」
桃の頭にクエスチョンマークが大量に飛んだ。
「安心しろ。俺は妻には優しい男だ。今世では女は尊重し大切にしなければならないことも承知している。妻は1人しか持つつもりはないしな。大事にするぞ。」
その発言自体が既にアウトだとわかっているのだろうか?
だいたい、何で数学・・・いや、算数の考え方のひとつを教えたくらいで“妻”になれなどと言われなければならないのだ?!
桃は・・・呆気にとられてしまった。
「まぁ結婚するのは卒業してからだな。」
などと戸塚は一人で頷いている。
こいつは、赤点だらけで卒業なんてできないのではないのかとか、桃は頭の中で、どうでもいいところに突っ込んだ。
それぐらい疑問と混乱の極みに桃はいた。
・・・ようやく立ち直り、戸塚を怒鳴りつけようと口を開きかけた時・・・
唐突に、肩をポン!と叩かれた。
「よぉ!・・・何だか、面白い話になっているな?」
「・・・串田。」
戸塚が顔を顰めてこの場への闖入者の名前を呼ぶ。
流石に同じ組の生徒の顔と名前くらいは憶えているらしい。
ニヤニヤと桃を見下ろしているのは、先ほどの馬術競技の優勝者である“串田 樹”・・・呂布であった。




