冬休み 2
その夜、目が覚めたのはたまたまだった。
庭の木の枝に積もった雪がバサリと落ちた音が耳についたのかもしれない。
利長の家は、雪は降っても思ったより積もらない、そんな地方にあった。
昼間降っていなかった雪が夕方に降り出して、明日は積もるかもと言われて「楽しみだ。」と翼が寝る前にはしゃいでいた。
この家は全館冷暖房完備で夜に起きても寒いという感覚はない。
喉の渇きを覚えた桃は、起き出し水を飲もうと与えられた部屋を出た。
ふかふかの赤いボアスリッパは足音が響かず、人感センサー付きのフットライトに照らされた廊下を桃は静かに進む。
一際大きなペアガラスの入った窓の前でふと立ち止まった。
家の庭近くの街灯に照らされて外の景色がぼんやりと浮かぶ。
雪が積もり昼とは別世界のような白一色の世界にしばし魅入った。
どれだけ経っただろう・・・カチッという小さな音が、桃の意識を戻す。
見れば利長が部屋から出てくるところだった。
「桃?」
驚いたように利長が小さな声を上げる。
夜のしじまに大きな声は憚られるようだった。
「利長、どうしたの?」
どうした?は、きっと利長のセリフなのだと思うけれど、早い者勝ちのような気分で桃は訊ねる。
二、三度瞬きした利長は、「喉が渇いて。」と言った。
「私も。」
2人、目を見合わせる。
クスリと笑った。
「雪が。」
「ああ。積もったな。」
再び窓の外に目をやる。
一面の雪景色の庭にチラチラと明かりに照らされた雪が舞っていた。
それは動いているのに何故か止まっているように感じられる、どこか不思議な空間だった。
雪を見たままの桃に、利長が近づいてくる。
隣に並んだ。
「桃。」
「ん?」
2人以外、家中の人間は眠りについている。
いつも突然現れる翼も夢の中だ。
シンとした静けさと幻想的な窓の外の景色が利長の背を押した。
「俺は、お前を“特別”だと思っている。」
桃はゆっくり目を瞬かせた。
関羽が劉備を特別な存在としていたことは、よくわかっている。
「・・・お前をただ一人の“特別な女性”だと思っている。」
今度は、わかった。
納得して・・・目を見開く。
(利長が、私を?)
桃以外の者の目には一目瞭然のことだろうに当の桃だけが気づかずにいて、今、驚く。
利長は苦笑した。
「誰よりも大切にしたい。共に有って生涯を一番近くで暮らしたい。俺を受け入れてくれるか?」
じわじわと桃の胸に熱が昇ってきた。
「それって、プロポーズ?」
高校1年生でプロポーズは、流石にないと思うのだが、利長は真面目に頷いた。
「そうとってくれてかまわない。」
桃の顔はボッと赤くなる。
快適なはずの家の中の温度が暑いように感じられた。窓を開けて屋外の冷たい空気で頭を冷やしたいと願う。
「・・・とは言っても今の俺たちの年で結婚はまだ無理だ。いくら13歳で成人と認められていても生活基盤も何もできていない内に2人で生きていけるはずがない。実際の結婚は互いに自立してからにならざるをえないだろう。」
冷静な利長の判断に、桃もちょっぴり落ち着いていく。
確かに親に扶養され学校に通っている今の状況で結婚などできるはずもなかった。
利長がゆっくりと手を伸ばし、その手が桃の肩に触れる。
そのまま宝物のように大切に、腕の中に抱き締められた。
いつもと違い、ポニーテールにしていない利長の長い髪が桃の頬にかかる。
石鹸の匂いがした。
とくんとくんと聞こえるのは、利長の心音なのか、それとも自分のものなのか?
桃はそれを確かめようと、耳を利長の胸に当てた。
「・・・桃。」
唸るように利長が、呻く。
「煽らないでくれ、我慢ができなくなる。」
告白されて、抱き締められ、その相手の胸に頬を寄せる行為がどう受け止められるのかに気づいて、桃は慌てて利長から体を離そうとする。
でも、煽るなと言ったはずの利長の腕は桃を囲ったままびくともしなかった。
「利長、私は・・・」
焦って声を上げる。
「静かに。」と桃をますます深く抱き締めた利長は、「わかっている。」と低い声で、耳元に囁いた。
「お前は、まだ自分の“好き”が俺たちの求める“好き”なのかどうかわからないんだろう?」
「え?」
驚く桃に「明哉に聞いた。」と利長は教えてくれた。
仲西家のクリスマスパーティーの後で、利長たちは当然のことながら明哉にクリスマスイブの件を問い詰めたのだった。
全員に攻められた明哉は、キスのことは伏せながらも、桃に告白して、桃から、自分も明哉が好きだがその”好き”がどんな”好き”なのか、まだわからないと告げられたと白状した。
・・・そう言われれば、確かに桃はあの時そう答えていた。
思い出して、また頬が熱くなる。
その姿を面白くなさそうに見ながら利長は、その場で全員の間で【今はそれ以上を桃に求めない】という紳士協定が結ばれたのだと話した。
「・・・紳士協定?」
紳士協定とは、互いに相手を信頼して結ぶ約束を言う。口約束だから当然法的拘束力とかそんなものは何もない。
・・・三国志の武将たちの間で紳士協定?
何だかひどく“違和感”がするのは何故だろう?
決して彼らに信頼感がないわけではないのだが・・・何故か“紳士”という言葉が妙に浮き上がって聞こえた。
釈然としない桃の様子に困ったように苦笑しながら、利長はだから今すぐ自分の“想い”に答えをくれなくともかまわないのだと言う。
「俺の心は変わらない。俺はお前を本気で愛している。お前の一番近くでお前の心が育つのを待っていたい。それを許してくれ。」
低く囁かれる声は熱を帯び、桃の背中に回っている手は大きく暖かく、離れる気配を見せなかった。
利長の言葉は真摯で、だから桃も真剣に考える。
・・・いや、考えずともわかっていた。
利長が自分から離れるなんて、イヤだ。
ずっと一緒にいたいのは、桃の方だった。
それがどんな形にしろ、利長の・・・関羽の魂は自分と共にあるべきものだ。
悲惨な前世の記憶を乗り越え、そんな自分でも皆が受け入れてくれると知った桃は強くそう思う。
「・・・共に生き、共に死なん。」
自然にそう口にしていた。
利長を見上げる瞳は黒くけぶっている。
利長は目を見開き・・・やがて困ったように笑った。
「“誓い”を破るつもりはないが・・・桃、今はそうじゃない。」
“桃”と呼ばれて、桃の目がゆっくりと明るい光を取り戻す。
その目を利長は覗きこんだ。
「“桃”・・・“お前”を愛している。
I, Toshinaga, take you Momo, to be my lawfully wedded wife,to have and to hold,for better or for worse,for richer or for poorer,in sickness and in health,to love and to cherish;from this day forward,until death do us part.」
・・・それは、結婚式で使われる英語の誓いの言葉だった。
利長も考えたのだ。
関羽と劉備の関係はあまりに強すぎる。どうしても自分たちは前世を引き摺らざるを得ない。
おそらく明哉は、クリスマスイブという絶好のタイミングと、劉備以外の桃の前世を引き出した事で、諸葛亮という前世を超えて自分の想いを“桃”に届けられたのだろう。
そんなことでもなければ、何も無い時に利長が桃に告白しても、それを桃が”1人の少女”として受け取ることは難しいだろうと思われた。
間違いなく、桃は劉備で自分は関羽なのだから。
かといって“辛い”と言っている桃の劉備以外の前世を故意に思い出させたくはない。
考えて思いついたのが、英語での誓いだった。
桃の両親は英国人だと聞いている。ならば“桃”は英語を聞きなれているはずだ。
三国志のイメージを何も感じさせない異国の言葉。
それであれば・・・
利長の思ったとおり、英語で言われたその言葉は、間違いなく“桃”に届いたようだった。
桃は・・・真っ赤に染まる。
その姿は、どこにでもいる普通の1人の少女だ。
“可愛い”と利長は思う。
「俺の“想い”から逃げずに、いつか答えを返してくれ。」
心の底から願った。
桃に逃げたつもりはなかったが・・・そう受け取られたのならばと、黙ってコクリと頷く。
気恥ずかしくて、抱き締められたまま顔だけを窓に向けた。
雪は、降り続いている。
音もなく静かに・・・積もる。
闇の中に白い世界が浮かびあがっていた。
雪など見慣れているはずの利長の心にさえも、その白は届く。
「・・・きれい。」
「・・・きれいだ。」
2人の声が、重なった。
永遠であれと願うような時間。
夜半の雪が止む気配は、なかった。




