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彼女は言葉を切ると、読書灯の方へ片腕を伸ばした。細い、けれど圧倒的な肉の存在。灯りを消すのかと思えば、おれの煙草の箱をまさぐり、よれた一本を抜き取った。
「不正規品か。まあ、大目にみよう」
口にくわえてマッチを擦った。煙を吐いて眉をひそめた。不味かったのだろう。フィルターのない吸い口に残された口紅の跡が、いやに鮮明に見えた。彼女はその煙草を、隣でばかみたいに横たわっているおれの口へ、子供が悪戯でもするように、くわえさせた。心なしか、甘い味がした。
彼女は訊いた。
「アリーシャとかいったな。あの女とは、どこで知り合った?」
「イーズラック人の酒場に雇われて、客を占っていた。それ以外の素性は、まったくわからない」
「そのわりには、なかなかどうして、十年来の知友でも、ああまで息の合った芸当はできまい。それとも、行きずりの女と瞬時に気脈を通じるのが、貴様の才能なのか」
「授かりたい才能だね。だが現状は、トラブルに巻き込まれているだけの話さ」
「サイレント映画の喜劇役者のように、か」
肩をすくめたつもりだが、実際に動いたかどうか心もとない。相変わらず手足は麻痺したように、ぴくりともしない。カヲリはおれの口から煙草を抜いて、灰皿に灰を落とし、次に自分でくわえた。なかば目を閉じて煙を吸い込み、吐いた。独り言のようにつぶやいた。
「あの女は、サイキックではなかった」
「おれもそう思う。あのとんでもないパイロキネシスを有する双子と違って」
「気の毒な双子さ」
「かれらは汚染地帯の施設から盗み出されて、あの麻薬……クラーケンを投与されたのだろう。それも親孝行横丁で暴れたコックと違い、明らかに政治的な意図において」
彼女は答えない。同じ布団にもぐりこみながら、次元を異にしているような感覚は消えない。ただ煙草の吸い口だけを通して、二つの肉体は触れ合っていた。
おれは語を継いだ。
「ピルトダウン人なみのおれの頭にも、おおよその見当はつくよ。あれはクラーケンの副作用というより、真の姿だ。服用した者には、死と引き換えに不死身の肉体と、恐るべき力が宿る。三流の恐怖映画に出てくる、ゾンビや吸血鬼みたいなものさ。もしそいつが統御できたら、不死身のモンスター軍団を手に入れたことになるものな」
「だが結局クラーケンは不完全なまま、イズラウン人たちは開発を打ち切った。クラーケンを服用した者が、必ずリビングデッド化するとは限らない。確率的には百分の一程度だといわれている。また、たとえリビングデッド化したとしても、暴走あるのみで制御がまったくきかなくなる。だから……」
言葉を切り、彼女が煙草を揉み消す間、おれの背筋を冷たい戦慄が走った。おのずと声が震えた。
「サイキックをリビングデッド化させ、砲台として用いたというのか。悪魔の所業だ。とても人間の考えることじゃない」
常人でも、一人で武装警察の分隊を壊滅させるほどの力を引き出せるのだ。サイキックをリビングデッド化させれば、それだけでとんでもない殺戮兵器ができあがる。二本めの煙草に火をつけながら、カヲリはつぶやいた。
「悪魔より悪霊と呼ぶほうが適切かもしれない」
「カラマーゾフとかいったな。旧首長連合系の過激派の名は。そいつらが気の毒な双子を使って拘置所を襲わせたのは、何のためだ。仲間の政治犯ごと焼き殺して何になる? それとも、双子の破壊力が予想以上であったため、計画が失敗したのか」
「いや、見事に成功している」
問いただそうとしたおれの口は、煙草の吸い口でふさがれた。彼女は片手を頬にあて、まるで夜伽するようにこちらを向いた。美しい鎖骨と、闇の中で息づいている乳房の谷間がのぞいた。
「襲撃の翌日、極秘裏に拘置されていた、旧政権の重要人物の死体が確認された。内蔵まで焼け焦げていたが、遺伝子鑑定によって本人であることが判明した。誰だと思う?」
煙草が抜かれた。理屈ではとても信じられない名前が、口をついて出た。
「竜門寺真一郎」
「そのとおり」
「ますます訳がわからない。カラマーゾフは竜門寺の息がかかった過激派だと、きみ自身言わなかったか。それとも竜門寺家の大ボスは、自殺でも望んでいたのか」
「まさか。あの男なら、オオサンショウウオのように八つ裂きにされても、生き延びようとするだろう。考え得る可能性はひとつしかない。早い話が邪魔だったのさ。竜門寺真一郎は、明らかに政治的な意図で、何者かによって暗殺されたのだ。竜門寺家再興の名において」