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すぐ隣で、しなやかな肉体が寝返りをうつ、濃厚な気配が感じられた。気配が凝縮されて、肉体と化したようだった。かちりという音が鳴り、瞼の裏側に、淡いオレンジ色の火影が映じた。何者かが、枕もとの読書灯をともしたらしい。気配はささやく。
「むかしの作家がうまいことを言った。科学は人間の感覚機能を超えられない、と。量子力学が取り沙汰される、百年も前にそう書いた。なんなら、科学を現実と置き換えてもいい。わたしが見ているものと、貴様が見ているものが同じだという、客観的な保障はどこにもない」
「我おもう、ゆえに何とか、か?」
「違うな。貴様の感覚器が認識することによって、初めてわたしが存在する。存在したことになる。気障ったらしく言えば、きみおもう、ゆえに我あり、だ」
おれは誰と話しているのだろう。
亡霊か? 生霊か? 夢か? それとも実体か? 少なくとも彼女が、そんな混乱を見透かして、皮肉っているのは明らかだろう。夢も現実も、所詮はおのれの感覚の中のできごとに過ぎない。が、しかし……何十年も閉ざされ、錆びついたシャッターをこじ開けるときの力をこめて、重い瞼を持ち上げた。
ぎりぎりと音がしなかったのが不思議なくらい。瞼の隙間から入りこんできた光は、けれど思ったほど眩しくなかった。近頃では燃料不足を理由に、夜中の送電が露骨に制限されている。読書灯はあるかなきかの電気を拾い、蝋燭よりもほの暗く、頼りない光を投げかけている。
「きみは考え事をするのに、いちいち他人のベッドを使わなければいけないのか」
カヲリはうつぶせに寝ていた。少し乱れた髪。重ねた手の甲に顎をのせ、至近距離から、皮肉まじりの視線をこちらへ向けていた。布団からはみ出した肩に、黒いブラジャーの紐が、しどけなく引っかかっていた。
むろんおれは驚いたが、体はなかば麻痺したまま。跳ね起きることはおろか、首を五度ばかり傾けるのがやっとの状態。眠っている間に、ある種の麻酔を打たれたのかもしれず、彼女ならそれくらいやりかねない。けれど、そうまでしておれの隣に寝ていなければならない理由が、皆目わからない。
となると、やはり夢なのだろうか。夢だと解釈するのが、最も自然ではあるまいか。肉体と脳の覚醒が不均衡におとずれたとき、生々しい夢を見るという。「科学的に」説明される、亡霊出現のプロセスと同じ理屈だ。
(きみおもう、ゆえに我あり)
これほどリアルな夢があればの話だが……彼女は言う。
「わたしが大富豪の娘だとか、麗子から吹き込まれているのだろう。彼女と子供らしい付き合いをしていた頃は、確かにそうとも言えたが。どうも麗子は、わたしという人間を買いかぶりすぎている」
「少なくとも、得体の知れない男のベッドにみずから潜りこむ奇癖があるとは、夢にも思っていない」
「そういうことだ」
小刻みに肩を揺らし、くっくっと彼女は笑う。圧倒的な虚脱感に浸されることで、かえって皮肉を言う余裕すら生じている自分に気づく。精神も肉体も、余計な力が入らなければ、ずいぶん消耗を免れるのかもしれない。それほど日頃のおれは力みまくって、余計なことばかり考え、余計なことばかりしているのだろう。
なるようにしか、ならないのに。
「わたしはとことんまで地に堕ちた女だ。もちろん原因は金以外にない。例のクーデターのどさくさの中で、父親は殺され、かれの遺産はすべてわたしに受け渡された。負の形でね」
「新東亜ホテルの利権は、きみの家が握っているんじゃなかったのか」
「旧政権が機能してこその利権だろう。たしかにあそこの権利問題は迷路のように複雑で、新政権も匙を投げかけている。接収しようにも接収しきれず、潰したくても潰しようがない。経済あっての世の中だからね。軍事力も権力も、経済という化け物の前では蛇に睨まれた何とかみたいに身をすくめる。うかつに手を出せば、潰されるのはそっちだからね」
「資産家にとっては、有利な条件だろう」
「父親は資産家だったが、わたしはそうではなかった。家畜のように金を殖やすトリックはおろか、計算機にさえ触れたことがない。わたしにとって、金とは使うものでしかなかった。まさに、赤子の手を何とやらさ。資産は凍結され、わたしは文字どおり丸裸にされた」
「文字どおり?」
彼女はまたおれに目を向け、凍りつくような笑みを浮かべた。
「わたしのような女にも興味を持つ物好きがいてね。厄介なことに、そいつが新政権の主要人物の一人だったという、よくある話さ。あとは言わなくてもわかるだろう。わたしはそいつの要求を受け入れ、おめおめと生きながらえた。新政権の飼い犬に成り下がった。麗子が夢見ているほど、高潔な女では決してない」