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この位置からでは、もちろん絵柄は確認できない。タロットカード同様、剣や聖杯の出る確率が高いのかもしれない。
アリーシャは片膝をついて、そっと猫の背を撫でるように、首輪の上にカードを滑らせた。赤い光がひらめき、緑色の火花が散った。猫の体が細かい粒子に分解されたところまでは、前に見たとおりだが、きらめきながら螺旋を描き、粒子がアリーシャの体に纏わりつく情景は初めて目にした。
翼の音が高々と響いた。彼女の背に、漆黒の翼が広がっていた。巨大な、カラスの羽だ。
血染めのコックは怒り狂ったように呻くと、装甲服が捨てていった警棒を拾い、彼女に向かって突進した。前回の麻薬中毒者と比べて、破壊力の違いは歴然としていた。コックは走りながら警棒を振り上げ、憎悪をこめて振り下ろした。轟音とともに、三輪トラックはまっぷたつに粉砕された。
黒い天使のように、アリーシャは宙を舞った。まるで死を予言するかのように、無数の黒い羽根が男の上に降りそそいだ。彼女は大きな金細工の聖杯を手にしていた。中空でホバーリングしながら、それを振った。大きな金の鈴を振りながら、踊るようにも見えた。真っ青に輝く液体があふれ、死神の大鎌と化して、空からコックを急襲した。
男の右肩を含む上半身が切り離された。ひとたび左手で宙を掻き、残った体は仰けざまに倒れた。人蝋のように、またしてもそれらは燃え上がり、二つの火柱と化した。
彼女が着地すると、翼と聖杯は粒子に解体され、彼女の腕の中で一匹の猫の姿に戻った。おれは反射的に叫んだ。
「アリーシャ、逃げろ!」
すでに彼女は、猫を抱いた一人の少女と変わらない。コックを攻撃していた一隊はすでに機能を停止していたが、カヲリは決して見逃さなかった。
「少し話を聞く必要があるかもしれない。面白い武器を持っているようだが、この距離だ。弾丸を止められる念動能力者でもない限り、わたしの指示に従ったほうが賢明だということは、理解していただきたい」
背に銃口をあてられたまま、彼女はわずかにうなずいたようだ。身をかがめて猫をそっと降ろし、両手を上げた。カヲリの背後から二人の武装警官が進み出て、アリーシャの腕を両側からとらえた。どこに身を潜めていたのか知らないが、いつぞや、おれの部屋に踏み込んできた、彼女の直属の部下とおぼしい。
アリーシャは腕を後ろに回され、三重の枷を嵌められた。強化人間をとらえるための手錠だ。ロックされる音が響き、アリーシャは小さく呻いて、眉根を寄せた。アマリリスなら簡単に引きちぎるだろうが、彼女自身はあくまで生身だ。プルートゥを用いない限り、戦闘力はゼロに等しい。
しかし、カヲリがプルートゥを見逃したということは、「魔術」のカラクリに気づいていない可能性が強い。不法ギルドの連中に絡まれた時と違い、猫は武装警官を攻撃しようとはせず、拘束された主人をおとなしく見上げていた。ゆっくりと、カヲリが近づいてきた。
「一応、殺人の現行犯ということになる」
「正当防衛だろう。無能な警察の代わりに、体を張って被害を食い止めたのは、彼女じゃないか。それとも、善良な市民に強化人間用の手錠をかけるのが、刷新のやりかたなのか」
「市民に蛇蝎のように嫌われるのもまた、国家権力の役目さ。ところで貴様は、あの女とは知り合いのようだが」
お得意の道化師のポーズで答えた。彼女は赤い唇を歪めて微笑んだ。銃口を向けたまま、ぐっと体を寄せ、耳朶に触れるほど唇を近づけて囁いた。
「どっち道、貴様には話があったのだ。連行させてもらうぞ」
「任意同行じゃないのか?」
「公務執行妨害の現行犯だ。お望みなら、銃刀法違反と擾乱罪を加えてもいい」
罪状というものは、向こうがその気になれば、いくらでも付け加えられる。そもそも、罪を犯さずに生きられる人間なんて、一人もいやしない。再び道化師と化したおれの腕を、舞踏に誘うには少々乱暴な手つきでカヲリはとらえ、音を鳴らして手錠をかけた。残念ながら、こちらは強化人間用ではなかったが。
間もなく小型の装甲車が横付けされ、おれとアリーシャは後部座席に押し籠められた。二人のガスマスクが両側を占めた。三人めのガスマスクが運転席に座っており、カヲリはというと、いつぞやの黒い大型バイクに乗り込むさまが見えた。彼女の先導で、車が走り出した。もはやプルートゥは、どこにいるかわからない。
アリーシャは手枷のほかに、三つの金属の輪で体を固定され、銀色のマスクで口を塞がれていた。片方の肩が剥きだしになったさまが痛々しい。おれと彼女の間は、透明な板でなかば仕切られていた。それでも彼女が身じろぎするたびに、薔薇の香りが匂い立つようだ。
「苦しくないか?」
小声で囁くと、彼女は目顔でうなずいた。たちまち隣のガスマスクに銃口で脇腹を小突かれ、おれは肩をすくめた。それにしても、この物々しさは何なのだろう。武装警察の分隊をまるごと壊滅させた、その男を彼女は一瞬で屠ったのだ。当然と言えば当然なのだが、引っかかるものを感じた。やつらはいったい、何をそこまで警戒するのだろう。
(弾丸を止められる念動能力者でもない限り)
郊外の闇を抜けて、装甲車は区の拘置所のゲートを潜った。留置場をすっ飛ばしてここへ直行したところからして、VIP的扱いと言えた。