34(2)
「撃て!」
号令とともに、前後の武装警官が一斉に発砲した。強烈な電流を浴びたように、地面から数センチ浮いた状態で、血染めのコックの全身が踊った。無数の穴からどろりと吐き出された血は、粘り気があって赤黒かった。
弾が撃ち尽くされた。それでもコックは倒れず、うなだれた姿勢で動きを止めた。立ち往生したのか。警官たちが前進しようとしたとき、いきなり男の肩が震え、丈の高い帽子ごと頭が持ち上げられた。男は笑っていた。ぐうと両棲類めいた唸り声を発しながら、膨れあがった舌を、歯の間から垂らして。
指揮官らしい男が、また何か叫んだ。カヲリのような軽装ではなく、かれもまたガスマスクを被った完全武装である。装甲車の間から三つの人影が進み出た。重々しいシルエット。ぎくしゃくとした動き。最初、チャペックのように見えたが、装甲服をまとった警官であるらしい。かれらのバックパックから、太いパイプが車の中まで伸びていた。
「まずいな……あの程度の武装では」
我知らずつぶやいた。麻薬中毒の男と実際に組み合った実感から、あまりに心もとない気がしたのだ。
「やはりそう思うか」
まさか言葉を返されるとは思わなかったので、驚いて目を向けた。野次馬に混じって、黒ずくめの女が腕を組んでいた。極端なショートヘアだが、女性らしさを失わない、ぎりぎりのラインは保っている。サングラスの下で、赤い唇が月の形に歪む。私服の彼女を見るのは初めてだが、何者であるか、考えるまでもなかった。
「やつは無能だ。部下を捨て駒くらいにしか考えていない、冷酷な臆病者だ」
前方に目を向けたまま、吐き捨てるようにそう言った。あの指揮官を評したのだろう。装甲服の三名は、じわじわと前進しながら、ジュラルミンの盾を片手に、黒い警棒を構えた。といっても、通常の警棒の五倍はあり、バックパックとパイプで繋がっている。急襲すれば、小型の戦車くらい破壊できるシロモノである。
狂気の笑いを浮かべたまま、コックが跳んだ。ガラスにへばりついたヤモリのような姿勢で一回転し、左端の装甲服の上に降ってきた。警官の全身を怯えと驚きが貫くさまが、はっきりと見えた。それでもよく訓練された動作で、コックを警棒で叩き落とした。たちまちべちゃりと、コックは地面に這いつくばった。その姿勢がまたヤモリのようなのだ。
ぶぅーんと電圧がかかる音とともに、さらに警棒が振り下ろされた。同時にコックはバネ仕掛けのように跳ね上がった。「く」の字にへし折られた警棒が、くるくると宙を舞った。警官は後ろに数歩よろめき、どすんと尻餅をついた。すかさずコックが飛びつき、逆手に肉切り包丁を持った右手を、高々と振り上げた。火花が飛び散り、金属の焼ける臭いがした。
装甲車の中のスピーカーから、この警官のものらしい絶叫がほとばしった。
「どうなっている? なぜあんなもので、装甲服を切り裂けるんだ?」
「知るものか。ひとつだけはっきりしているのは、即座に退却しなければ、隊が全滅することだけだ」
いまいましげに、カヲリは唇を震わせた。
助けに入ろうとした体勢のまま、残り二名の装甲服は凍りついていた。機械油とも血ともつかないものでどろどろになった顔をコックが上げたとき、二人とも完全なパニックに陥り、腕を振り回しながら逃げ出した。が、中世の重い鎧を着ているよりもなお、その足は遅い。しかもバックパックから、パイプを切り離すことさえ忘れているのだ。
銃撃の音が響きわたる中、なだれをうって逃げ始めた野次馬に逆らって、カヲリが不意に駆け出した。指揮官のもとへ一直線に走り寄り、飛びかかるようにして叫んだ。
「援護射撃をやめさせろ! 一般人がいるのが見えないか!」
たちこめる硝煙。交叉するサーチライトの光が二つの輪を描き、死のような沈黙に震えていた。一つの輪は、当然、血染めのコックを捉えたまま。ぶすぶすと煙を吹き、血膿をしたたらせながら、うなだれたような姿勢で立ち尽くしていた。もう一つの輪は、横転した三輪トラックの上にあった。幻灯のように、その上にたたずむ人影を映し出した。
おれはオキシジェン・テントで上映されていた、奇妙な映画の続きを観る思いがした。微風になびく長い髪。ふぅわりとワンピースに包まれた、少女らしいシルエット。作りもののように細い踝のかたわらには、しゃんと尻尾を立てた影ような猫……
猫の緑色の瞳から、小さな火花が散った。
「アリーシャ!」
血染めのコックは獲物を追うのをあきらめ、彼女の方へ向き直った。ぐるぐると唸り、でこぼこに変形した肉切り包丁を握ったまま、バネをたわめるように四つん這いになった。
いつのまにか、彼女の背後には月が出ていた。以前見たときよりも欠けていたが、スモッグに拡大されて、彼女の影をすっぽりと包み込んでいた。踊るように、あるいは未知の楽器を奏でるように、彼女は月の中でカードを繰った。細い指がひるがえると、束ねられたカードの中から、一枚を抜き出し、頭上にかざした。
(カラスの聖杯)
まるで月から降ってきたような、澄んだ声が響いた。