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目の前で黒猫が一振りの長大な剣に変化した光景を、忘れたわけではない。夢でも幻影でもない証拠に、一彦もまたそれを見たと証言した。おれたちの目撃談は完全に一致した。あれはいったい何だったのか、当然おれは一彦に尋ねた。物理的な法則を、完全に超えているではないか、と。
物理的に説明のつかない現象は、魔術にほかならないのではないか。
一彦は言う。
(例えばぼくたちは経験的に、鉄を堅牢な物質と考えています。鉄壁の防御、などと例えます。けれども、ちょっと熱を加えるだけで、この堅牢な物質は簡単に形を変えます。熱膨張なんか顕著な例でしょう)
(なるほど、こんな硬いものが、熱によってぐにゃぐにゃと形を変えて、剣にもなれば、フライパンにもなる。昔の人は、それこそ魔術を見る思いがしただろうな)
(実際に製鉄は、神の技とみなされたようですね。さらに突き詰めれば、あらゆる物質は震える原子から成ります。どんなにぶ厚い鉄の板も、原子、さらには素粒子の集合体に過ぎません。思うに、強力な磁場の中で、猫という集合体が一旦ばらばらに解体され、剣という集合体に再構築されたのではないか。と、今はそれくらいのことしかわかりません。あたかも……)
カード占いのように。
運命が時には猫となり、時には剣と化すように。
(ならば、あの黒猫は機械なのか? 実際に触れてみた限りでは、柔らかかったし体温もあった。眼が奇妙な光りかたをするとは思ったが、とくに変わった要素は見当たらなかった)
(例えばアマリリスさんは、柔らかいし体温もあるでしょう)
(……)
(そういうことではないでしょうか)
アリーシャの持つカードが鍵になっているのは確実である。彼女は「剣」のカードを一枚抜き取り、プルートゥの首輪の上を滑らせた。剣が描かれているほうを、ほぼ水平に接触させた。首輪の模様を指して「読みとり機」のようだと言った、一彦の直感は当たっていたことになる。
では、ほかのカードを接触させれば、プルートゥはまた異なる変貌を遂げるのだろうか。例えば、黒猫亭でちんぴらたちを激怒させたカードの絵柄が、双頭のドラゴンだった。もしあのカードを赤い首輪に読み込ませれば、プルートゥはどんな姿をあらわし、どれほどの破壊力をふるうのだろう。
あの生ける屍を、弾丸も電気カッターも通用しなかった怪物を、それは一刀両断にした。たちまち焼き尽くした。ある意味それはアマリリスの左手を……すなわち、イミテーションボディを連想させずにはいられなかった。
パイプだらけの壁の間を猫は走り、路地を抜けた。がちゃがちゃと背中の器具を鳴らしながら、おれは小走りに追いかけた。漆黒の小動物は、眼玉が緑色の光を放たなければ、影と区別がつかない。
鼓動は徐々にボリュームを上げてゆく。プリミティブな打楽器のように、不穏なリズムでおれの胸を叩く。走っているせいばかりではない。それは不吉な予言と化して、何事かを囁き続ける。イーズラック語なのか。さらに古くて根源的な言語なのか、わからないけれど。
通りの空気は、ぴりぴりと神経を掻き毟るような緊張をはらんでいた。闇に乗じて取り引きされる、欲望と快楽がかもす空気とは、明らかに異質な……やがて血の色をした回転灯が闇を薙ぎ、まともにおれの目を射た。ポリスカーに改造された背の高い装甲車が、何台も停まっていた。捕り物だ。
野次馬が通りを塞いでいた。猫の姿はとっくに見失っていた。ただ不穏なリズムに導かれるまま、憑かれたように人垣を掻き分けた。娼婦のきつい香水のにおいや、怒号を遠くに感じながら、最前列に割り込んだ。
(よほどの兇悪犯か……?)
四台の装甲車が、通りの両側を塞いでいる。その前に陣取って、武器をかまえた十数名の武装警官が包囲しているのは、たった一人の男である。最初、ぶかぶかの赤い服を着ているのかと思ったが、鮮血に染まっていることがすぐに知れた。もとはコックコートであったらしく、丈の高い帽子にもまた、血の斑紋が、まがまがしい模様のように飛び散っていた。
見世物レスラーのように体格のいい男だ。極端な猫背で、両腕をだらりと垂らし、痙攣的に肩を揺らしていた。不自然な角度でねじ曲がった首。どろりと白濁した眼。歯を剥いて、奇怪な薄笑いを浮かべた口の端から舌を垂らし、腐ったような粘液を吐き続けていた。右手の先で銀色に光るのは、肉切り包丁のようだ。
(襲ってきた時点で、あの男はすでに死んでいた可能性が高いらしいの)
おれは否応なしに、あの麻薬中毒者を連想せずにはいられなかった。