33(3)
念のため二周したあと、映写機のもとに戻った。キノ氏は大きなポップコーンの袋を片手に、相変わらず缶ビールを飲んでいた。
「とりあえず、二十三匹処分しました。異常発生ですよ。一度ここを閉めきって、バルーム酸で徹底的に消毒なさることをお勧めしますね」
館内には異臭がたちこめ、さすがに客は一人もいなくなっていた。こんなことなら、最初から灯りをつけろという話である。
「また出てきますかな」
「さあ。成虫はすべて焼き払ったと思いますが。いったいどこから湧いてきたのか、それが気になります。ひょっとして、古い下水管を使われていたりしませんか」
よくあるケースだ。下水管は比較的浅い所を通っているし、埋め立てられないまま見過ごされているマンホールが、まだ多く残っていた。その中へ汚水をどんどん流し込めば、地上の管と違って維持費がかからず、格段に安上がりだ。ただし、古い菅はワームの通路でもあるという、諸刃の剣。まるごとワームに乗っ取られた建物を、何十棟も目にしてきた。
「そのような事実はありませんし、皆目見当がつきませんな。とりあえず、お掛けになってはいかが?」
パイプ椅子に腰をおろし、キノ氏にことわって煙草に火をつけた。煙を吐くと同時に、どっと疲労感にひたされた。思えば二時間近く、ずっと小腰を屈めてうろうろしていたのだから、無理もない。もう若くない証拠でもあるけれど。
奇怪な異星人の出てくる映画はとっくに終わっていた。スクリーンでは、ベラスケスの絵から抜け出したような少女が、延々と縄跳びをしていた。体つきは十歳くらいなのに、アップになった顔を見れば、三十路はとっくに過ぎている様子。リボンだらけの髪。白塗りの顔に、真紅の唇。異国の言葉で、跳んだ数を延々と数え続けているのだ。
(……トレントゥーノ、トレンタドゥーエ、トレンタトーレ、トレンタクワットロ、トレンタチンクエ、トレンタセーイ……)
頭がおかしくなりそうなので、おれは目を逸らした。くしゃりと、キノ氏はポップコーンの袋に手をつっこんだ。
「お気に召しませんか」
「自分にはどうも、難しすぎるようです」
「所詮映画ですよ。わたくしの趣味でね、いかがわしいものしか上映しません。ありきたりのポルノを観に来たお客は、がっかりなさるでしょうが。持論を述べれば、セックス映画は少しも猥雑ではない。むしろ、最も健康的、かつ現実的な類いのものでしょう。そしてわたくし自身、健康的、かつ現実的な映画には、まったく興味がない」
おれはちらりと画面に目を遣り、まだ縄跳びが続いているのを確認して、密かに溜め息をついた。
「つまり、病的な映画にしかご興味がない、と」
「そうなりますかな。病んだ映像であればそれだけ夢に近づきます。そして夢とは元来、猥雑であるべきものです。わたくしはここに座って延々と夢を見続けます。眠っては夢見、醒めてまた夢を見るのです。これは復讐なんですよ」
「何に対する?」
「言うまでもないでしょう」
キノ氏は大量のポップコーンを口に放りこみ、ニヤリと笑った。業務報告書に署名をもらって、おれは席を立った。出口へ向かいながら、ここにゴクツブシが異常発生した理由が、おぼろげながらわかる気がした。地下へも通じておらず、餌が豊富なわけでもないのに、なぜワームが殖えたのか……やつらは闇から湧いたのではあるまいか。
闇そのものから湧いて、夢の残滓を食らっていたのではあるまいか。
(……ノヴァンタクワットロ、ノヴァンタチンクエ、ノヴァンタセーイ、ノヴァンタセッテ、ノヴァントット、ノヴァンタノーヴェ……)
鉄扉を閉めて映画館を出た。外はすっかり暗くなっていた。ようやく悪夢から逃れた思いで、大きく伸びをした。雲の間をふらふらと横切る人工衛星が見えた。足もとで、猫が鳴いた。
驚いて見下ろしたが、近くにろくな灯りがないため、辺りにはべったりと闇が貼りついていた。目を凝らすと、地面すれすれに小さな緑色の光がふたつ、蛍火のように浮いていた。黒猫の目玉に違いなかった。
「プルートゥ、なのか?」
問いに答えるように小さく鳴いて、猫は身をひるがえしたらしい。もしプルートゥなら、当然、近くにアリーシャがいるとおぼしい。なぜかおれになついているこの猫は、においでも嗅ぎつけて、主人のもとから、ひとっ走り寄ってきたのかもしれない。が、なぜ悪名高い親孝行横丁なんかに、彼女が来ているのだろう。
黒猫亭のある界隈から、距離的にはさほど離れていないが、心理的な距離というものがある。たしかに娼婦になるイーズラック人は多いけれど、彼女は占いで充分、身を立てられる筈。そもそもこの界隈は、いかにも地域人の結束が固そうで、よそ者の業者を締め出そうとする雰囲気が濃厚なのは、ここへ来たときの街娼の態度からも歴然としている。
キノ氏のような人物は、例外中の例外と思われる。