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32(3)

 胸の中で、いきなり心臓が跳ね上がる気がした。寿命が縮む思いとは、まさにこのこと。やつと付き合っていたら、決して長生きはできまい。耳に当てた受話器が飛び上がるほど冷たかったのは、室温のせいか、それともワットの声のせいなのか。例によって、温かみのカケラもない声で、やつは言う。

「突然お電話して申し訳ございません。家にかけてもお出にならないので、こちらかと思いまして」

 おれは黙っていた。体は心底冷えているのに、額が汗ばむのを意識した。

「折り入ってお願いがあるのです。簡単な依頼を引き受けていただけますか?」

「簡単な、だと?」

 刷新の諜報部員が十九人も消されている事件の、どこが「簡単」なのか。皮肉なのかと考えたが、それにしては一本調子な口調が気になった。

 政権が変わってこのかた、電話がひどく混線するようになった。無数の亡霊が苦しげに喘ぐようなノイズの向こうから、嫌味なくらいよく通る声がこたえた。

「ええ、極めて簡単な。エイジさんの手を煩わせるまでもない、ちょっとしたワームの駆除なのですが。偶然現場が重なってしまい、人出が足りないのですよ」

「ちょっとしたワームとは?」

「おそらく蠕動ワームQ5型、通称ゴクツブシとおもわれます。依頼主と電話で話しただけで、事前調査は行っていないのですが、まあ必要ないだろうと判断しました。もちろん現時点で、けが人は全く出ておりません」

 こういった場合のやつの判断は、まず信用していい。ゴクツブシだと聞いて行ってみたら多脚ワームがあらわれたとか、そんなミスは決してしない男だ。それにしても、茨城麗子がうちに来たことも、彼女からの依頼をおれが承諾したことも、とっくに知っている筈なのに。よくもまあいけしゃあしゃあと、ゴクツブシの駆除なんか頼めるものだ。

 おれの都合を確かめもせず、やつは続けた。

「そこからでしたら、ちょうど二つ隣の街区になります。急な話で申し訳ないのですが、これから行ってもらえますか。概要をお伝えしますので、メモをご用意ください」

 どうもおれという男は、強引なアプローチにとことん弱い。断るのが苦手である。思わず二葉にゼスチュアで示すと、彼女は三秒でメモと鉛筆をテーブルの上に滑りこませた。依頼主の住所を書き終えたところで「ではお願いしますね」と言ったきり、電話は途切れた。不通音に舌打ちして受話器を戻す間に、二葉はメモを光にかざした。

「へえ。ここって、親孝行横丁じゃない」

「善人の見本市みたいな所なのか」

「逆よ。パラダイスと名のつく所は、たいてい賭博場か売春宿でしょう。どんなに意志の堅固な若者も、この通りに一歩足を踏み入れたが最後、たちまち堕落してしまう。そんな皮肉を込めてつけられた名前を、通りの店主たちが面白がって、アーチにでかでかとかかげちゃったのね」

 兄貴たちによろしくとことづけて、車に乗り込んだ。二葉は一緒に行きたそうだったが、健全な青少年を不道徳な界隈にともなうわけにはいかない。新しいボンベを積んだ車は、快調にガレージから滑り出した。政権が変わって基本的に何一ついいことはなかったが、ガスの質は向上しているようだ。もっとも、それだけ値段も上向いたわけだが。

 急に「簡単な」依頼が回ってきたのは、むろん初めてではない。危険を冒さずに小遣いが稼げる、オイシイ仕事なのだが、今回ばかりは素直に喜べなかった。今さらオイシイ仕事を回されても、「幽霊船」で命を落とせば元も子もない。皮肉にしてはブラックがきつすぎるし、ウラがあるにしては繋がりが読めない。

(あの野郎、何を考えてる?)

 たいして遠くないわりに、街路が入り組んでいたため、現場に着くまでに二十分以上要した。片側が三車線ある、無駄に広い道路に車を止めた。うち2・5車線は潰れており、スクラップや、廃材を利用した住居や、露店で占められていた。よくある光景だが、そのうちここも当局の手が入るだろう。

 相変わらずの曇り空。日没にはまだ間があるが、すでに飲食店の屋台が出没し、灯をともし始めている。汚れた空気に、動物の骨でダシをとるにおいが混じる。横丁の入り口を見上げれば、なるほど二葉が言ったとおり、親孝行横丁の文字が、これ見よがしにかかげられている。

 おれは車のハッチを開けて、駆除用の道具を用意した。めったにないが、このての仕事のために、一応は常備しているのだ。ゴクツブシが相手なら、防護服は必要あるまい。もっとも、慣れていなければ、頭からドラム缶いっぱいのトマトケチャップをかぶることになるだろうが。社名の入ったツナギを着て器具を背負い、殊勝な名前の通りに足を踏み入れた。

 人食い私道とはまた違った意味で、アーチをくぐったとたん、たちまち空気が変わるのがわかった。

 あそこはこの世ならぬもの……すなわち死霊の妖気に満ちていたが、ここでは生きた人間の欲望が、濃厚な臭気をかもしていた。極彩色の欲望。路上で交わされる金と欲の駆け引き。ありふれた商店街の外観の裏から、隠しおおせることのできない腐臭が臭いたつようである。

 さすがにこの恰好をしていると、街娼は寄って来ない。彼女たちは連れでも待っているふうを装って立っているが、猫科の肉食獣をおもわせる目つきで、すぐにそれとわかる。一見、つつましやかな服を着ているが、座ったりすれば、脚や胸元があらわになる仕組み。以前はいかにも娼婦らしい恰好をしていたが、最近急に厳しくなった手入れへの対抗策である。

 彼女たちはまるでワームを見たように眉をひそめ、ぷいと顔をそむけた。

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