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刷新会議に接収されたあとも、長いこと別館のほうは封印されていたのではなかったか。表向きの理由は、民間の利害が複雑に絡んでいるとかで、あながちでたらめでもあるまい。あのホテル自体、首長連合の病的な側面を象徴しているようなところがあった。スキャンダルの坩堝であり、言語道断な宴が、夜な夜な行われていたとも聞く。
頬杖をついたまま、二葉は溜め息をもらした。
「さすがのわたしも、正直、疲れちゃったのよね。たしかに新任ということで、ずっと掃除ばかりやらされたけどさ。それとは別な意味で。あそこ、絶対変よ」
「出るのかい」
「出るのよ。使われていない部屋がほとんどなのに、中から変なもの音が聞こえるなんて、しょっちゅう。まるでこれから仮装舞踏会に出席するような、奇抜な恰好をした人物と廊下でたびたびすれ違ったし。振り向いたらもう消えているし。現に、泊り客や従業員が、たびたび消えてしまうみたいだし」
「消える? そいつはまるで……」
「ね。人食い私道を彷彿させるでしょう」
鋭い視線を向けて、すばしっこく唇をなめた。
「ま、明日あたり、ようやく掃除地獄からは解放されそうだから。客室につくようになれば、少しは楽になるし。もうちょっと続けてみようと思うの」
「危険はないのか」
「わたしの実力は、例の私道で確認済みでしょう。それに泊まり客に関して、いろいろと引っかかることがあってさ」
「どんなふうに?」
彼女は答えずに席を離れ、背中を向けて伸びをした。その姿勢のまま、くつろいだポーズとは裏腹な声を出した。
「新東亜ホテルの別館には、とんでもない客が泊まっているかもしれない」
おれが突っ込んで尋ねる前に、二葉はくるりと振り返り、「そうそう」と言いながらポケットを探りはじめた。そこに無造作に突っ込まれていたのは、小さなチャックつきポリ袋に入れられた白い粉。休日の高校生のジーンズのポケットから出てくるには、あまりにも場違いなシロモノである。
「これに関しては、エイジさんのほうでも、ある程度の予想はついているんでしょう」
「Kr-13。通称、『クラーケン』」
「ハイ正解。そこまでわかっているのなら、わたしが兄貴や博士の受け売りを、くどくど並べる必要はないわね。ただでさえ、化学はちょっと苦手なんだから」
「博士だって化学は専門外だろう。しかし、やつ、いや、かれに回されたってことは、分析するのによほどてこずったのか」
「何を言っているのやら。この麻薬の正体は、刷新会議の科学班にだって、突き止められていない筈よ。人体実験こそ最良の手段なんだが。と、博士は言ったわ」
変態博士の顔が目に浮かぶようで、おれは眉をひそめた。合成麻薬Kr-13の故郷もやはり、消滅した武装国家、イズラウンだと伝えられる。IBの誕生、ひいては第二次百年戦争の勃発に密接に関連しており、またその精製技術は、今では完全に失われているという。ゆえにこの麻薬を「新たに」作り出すことは不可能なのだ。
不可能でなければならないのだ。
「人体実験ができぬ以上は、何とも言えんのだが。と、博士が言うには。ほら、エイジさんとカズ兄さんを襲った男がいたでしょう。あの男こそ、クラーケンに中毒していたんじゃないかと……」
「ちょっと待ってくれ。じゃああれは、クラーケンの副作用だったというのか?」
「そういうことになるわね。しかも驚きなのは、博士の意見によると、襲ってきた時点で、あの男はすでに死んでいた可能性が高いらしいの」
「あり得ない……!」
混乱のあまり、頭を掻きむしった。鉄骨を手にした血まみれの男の姿が、ありありと浮かんだ。首は不自然な角度にねじ曲がり、目は白濁し、口の端からだらりと舌を垂らしていた。全身からたちこめる厭な臭いは、明らかに腐臭をおもわせた。
それでもやつは、もの凄い力で鉄骨を振り回した。五発の弾丸にも倒れず、高圧電流を浴びてもなお、襲いかかってきた。あの時点で……男は死んでいたというのか。ではいったい、どうやって動いたのだ? 武器を持った大の男が二人がかりで取り押さえられないほど、すさまじい力がふるえたのだ?
蒼古たる伝説にのみ聞く、夜歩く生ける屍のように。
電話が鳴っていた。ずっと遠くで鳴っているように思えたが、ガラクタの棚に二葉が手を伸ばし、受話器を持ち上げると同時に、ベルの音は途絶えた。短い応対のあと、彼女は送話口を手で押さえ、おれに告げた。
「ワットくんから」