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ワットからは何の音沙汰もなかった。ふだんはしつこいくらいの男が、四日の間、うんともすんとも言ってこないのだ。
この一件をやつが重々承知していることは、麗子の口から確認済みである。やつなりに動いているのも確かだろう。依頼主のカヲリは富豪の娘だと聞く。首長の血族とはいえ、政治犯として全てを没収されるほど、濃い繋がりはなかったらしい。クーデター後も、それなりの資金力を保っていると考えるのが妥当だろう。
そして竹本ワットが、金のにおいのする話に飛びつかないわけがない。解凍遺伝子の魚を前にした猫のように。
麗子があらわれた夜のできごとは、すべておれの妄想ではなかったかと、考えるときがある。麻薬密売組織も、「幽霊船」も、カヲリによる間接的な死刑宣告も。酔ったおれの頭がこしらえた、一場の夢に過ぎないのではないか。このまま放っておけば、おれとの接点をもたぬまま、すべては時の流れの彼方に押し流されてしまうのではないか、と。
(わかっている限りの情報は、後ほどカヲリから提供されると思います)
それに尽きるのかもしれない。ワットとしては、表向きは感知しない態度をとり続ける必要がある。それくらいやばいネタなのだ。ゆえにこちらから連絡しても、知らぬ存ぜぬで通すだろうし、ばかみたいな話、窓口となる茨城麗子と話すのが気恥ずかしくもあった。
(何一つリスクを負わないとは申しません)
頭を掻きむしり、煙草を揉み消した。四日の間、ほとんど家から出ておらず、一日じゅう煙草をふかしては、思い出したようにぼそぼそと缶詰を食べた。このままおれは世間から消えてしまうのではあるまいか。他者に認識されない存在は存在しているとは言えないと、大昔の物理学者が言ってなかったか。
それもまたよしと考えていたところで、電話が鳴り始めた。情けない話、びくりと体が震えた。看守の足音に怯える死刑囚の気分が、少しわかる気がした。消えることはおろか半透明にもなれないまま、いかにも重い受話器を持ち上げた。
「ハロー、お久しぶり。このあいだ分けてもらった蛸の切り身なんだけど。いかにも遺伝子解凍に失敗して、中毒起こしそうなやつ。あれの成分解析が済んでるから、うちに来てよ」
相槌をうつ暇もなく電話がきれて、ノイズだらけの不通音が鳴っていた。言うまでもなく、二葉は例の麻薬のことを暗示したのだ。万が一の盗聴を警戒したのだろう。そのことからして、あれが何であったのか、行かなくてもわかるというもの。
とはいえ、このまま部屋にいてもキノコが生えそうなので、出かけることにした。アマリリスを見舞い、車のボンベも交換したい。
「やあやあ。ちょっと顔を見ない間に、前にも増してくたびれた感じだね、エイジさん」
八幡商店のガレージの中。いつものスペースに座ると、コーヒーの香りとともに二葉があらわれた。ダンガリーシャツにジーンズ。ピンクのマフラーを巻いたまま、よほど気に入ったのか、いつぞやのゴーグルを頭にのせていた。
「創立記念日か?」
「ノンノン。今日は日曜日。いつも頭の中が日曜日な人には関係ないでしょうけど。誰かさんが部屋で頭からキノコを生やしている間も、世の中は動いているのよ」
一朗と一彦は、揃って朝から出かけているという。
先に二階を訪ねたのだが、珍しく博士は不在で、かわりに黒木に案内された。アマリリスはCNC溶液の中で眠っていた。時おり痛みを感じたように眉をひそめるものの、おおむね安らかな寝顔を見て、快復に向かっていることを知った。それにしても、八幡ブラザースといい変態博士といい、日曜日に出かける者の多いことだ。
コーヒーをすする間、二葉は机がわりの鉄板に両手で頬杖をついて、ゴロタウロムシでも見るようにおれを眺めている。このワームは人畜無害で小犬とカブト虫を合わせたようなユーモラスな形状をしているため、ペットにする物好きもいるほどだ。問わず語りに彼女は語る。
「最近忙しくてさ。家でゆっくりするのも、けっこう久しぶりなんだ」
「ボーイフレンドと勉強してたんだろう」
「期末試験ならとっくに終わってる。ボーイフレンドって、タミーくんたちのこと? 最近忙しかったのは、バイトのせいなんだけど」
「新東亜ホテルの?」
おれは首をかしげた。一彦の言っていたことと、微妙に食い違う。
「そうそう。いきなり別館のほうに回されちゃったのね。何で学生アルバイトのわたしが行かされるのか、よくわからないんだけど。ほら、別館といえば変な噂が絶えない所じゃない。幽霊館だのロンドン塔だの。壁なんかも蔦が這い放題だし、いかにも陰気な感じ。泊り客がいたこと自体、驚きだったわ」
「首長連合の時代から、あそこはいろいろと言われているな。竜門寺家が危険視する首長を、表向きは接待の名目であそこに招き、その実幽閉して、密かに殺していたとか」
「へえ。だからロンドン塔なんだ」
「あくまで噂だけどね」