31(4)
皮肉をこめたつもりはない。これまでも、そしてこれからも、おれは流されるままに生きてきたし、生きてゆく。流れ着いた先に待ち受けているものが死ならば、それはそれで受け入れるしかあるまい。こんな商売を続けながら、今まで生きてこられただけでも、奇跡に等しいのだから。
麗子は頭を下げ、何度めかの「すみません」を発した。おれは笑って手を振る。
「恐縮する必要はないよ。『幽霊船』なら、ちょうど行ってみたいと思っていたところだ」
「えっ」
「七年ほど前、そこに半年間、身を隠していた。しかし、おれがいた頃にはイーズラック人の姿はまったく見かけなかったな。商売敵として、あの界隈では嫌われていたから」
「当局がアジトの特定にてこずった理由のひとつも、そこにあるようです。いつの間にイーズラック人が『幽霊船』に住みつき、元の住民とどのように折り合いをつけたのか……潜入した諜報部員が次々と消される現状では、多くは霧の中なのですが。わかっている限りの情報は、後ほどカヲリから提供されると思います」
また会うことになるのだろうか。ほっそりとした、黒い鳥をおもわせるシルエットが再び脳裏に浮かんだ。ああなるほどとおれは思う。彼女がカヲリと名のるのは、カフカ鳥を意識したのだろう。人の死を予言するといわれる黒い鳥。そのすぐれた嗅覚が、時空を越えて死の「香り」をかぎつけるのだという。
「彼女はレイチェルについて、何か話したか?」
「いいえ。とても尋ねる雰囲気ではありませんでしたし」
「この件を、会社には通してあるんだろう。おれが『なんでも屋』であるためには、曲がりなりにも竹本商事の社員であることが前提となる。きみのことだから、そのへんは抜かりないだろう。もちろん、皮肉ではなく」
麗子がうなずくのをみとめて、ゆっくりと煙草の火を消した。
「あとはおれの返事を待つばかり、か。いや、先に選択の余地はないと聞いているし、おれもそう思う。ただし、じたばたしようと思えば、できないことはないんだ。きみは忘れているようだが、その気になれば、おれは人類刷新会議を壊滅させることだってできる」
むろん、アマリリスのことを言っているのだ。相崎博士の研究室に乱入し、命令するだけでいい。もっとも、今のアマリリスなら刷新会議どころか、人類そのものを滅ぼしかねないが……唖然としている麗子に、おれは道化師のポーズで笑ってみせた。
「冗談を真に受けられると立つ瀬がない。まだあの子を『解放』する時期でないことくらい、承知しているさ。苦しむのをわかっていて、みすみす『本物の』IBにしてしまうようなことはしないよ。きみが直々に来たということは、この依頼をおれに受けてほしいという、きみの意志の表明と解釈していいのかな」
真顔で、彼女はうなずいた。
「わたしの意志で、あなたを死の危険にさらすのですから。何一つリスクを負わないとは申しません」
音を立てずに椅子を引いて席を離れ、おれの目の前に立った。百合の花束の匂いがした。ちょっと腕を伸ばすだけで、彼女の腰を抱けるだろう。圧倒的な乳房を支えるには細すぎるような、その腰をサテュロスのように荒々しく持ち上げて、ベッドまで運んで行けるだろう。
ゆっくりと、麗子は両腕を頭の後ろに回し、結んでいた髪をほどいた。その動作から、おれはアリーシャの舞踏を思い出していた。
「依頼は受けるよ。でもこれは、一生後悔するような選択じゃない。次の選択に比べたらね」
席を立ち、彼女の前にひざまずいた。赤いマニキュアで武装された指先は、ひんやりと細かった。ドン・キホーテの口吻けを手の甲に受けるとき、電気を帯びたような彼女のおののきが伝わってきた。ここにおいて一つだけ悟ったのだ。紳士とは、痩せ我慢の文化的帰結であると。
彼女が帰ったあと、テーブルの上からは魔法のようにすべてが消えていた。
呆けたように煙草をふかしている間も、勃起がなかなか治まらずこまった。死ぬか生きるかの取り引きをしておきながら、未練たらたら。寄せては返す波のような後悔に責め苛まれた。後悔するくらいなら、なぜ抱かなかった。おまえはそれでも大日本おっぱい党員か。
(やれやれ)
吸殻の山の中に煙草を放り込み、リビングに戻って、書きもの机の引き出しを開けた。黒光りするパイソンの隣に、煙草の箱がひとつ。パッケージには、帆船の真下から絡みつく、巨大な蛸の絵が刷られていた。イーズラック人の酒場、黒猫亭で不法ギルドの連中が所持していた。煙草に偽装した麻薬である。
忘れていたわけではないが、麗子にはとうとう話さなかった。すでに一本一彦に渡して、成分の分析を頼んである。が、結果を待つまでもないだろう。おそらくは、こいつが「クラーケン」に違いあるまい。
月の中で踊るアリーシャの姿を、また思い浮かべた。間もなく再会する運命にあるとは、予想もせずに。