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そんなことだろうと思ったが、それにしても彼女が直接、部屋に乗り込んできた理由は謎のまま。面倒であれ何であれ、依頼は依頼。まずは事務所に呼び出すのが筋だろうし、選択の余地がないのなら、なおさらである。人を丸めこむ腕前は、麗子よりワットのほうが百倍上なのだから。
「お察しのとおり、この依頼には私的な要素が含まれます」
おそらく顔に書いてあったのだろう。どうも根が単純ばかなものだから、容易に考えを読まれてしまう。思わず乾いた声が出た。
「きみの個人的な依頼なのか?」
「正確には、わたしの親友からの」
「きみの友達の頼みを、おれが断れない理由があるとは思えないが」
共通の友人はいない筈である。そもそも彼女の口から「親友」という言葉が出たこと自体、驚きだった。日頃、プライベートなにおいをまったく感じさせない点において、彼女は秘書型チャペック以上かもしれない。尾篭な例ではあるが、面談中、彼女がトイレに立ったところを一度も見たことがないほどに。
唇を湿すように、麗子はワインをひと口飲んだ。それから姿勢を正して、側面からおれを真っ直ぐ見つめた。
「親友の名は言えません。言ったところで、エイジさんは存じていらっしゃらないでしょう。むしろコードネーム『カヲリ』と申したほうが、よくご存知かと思います」
黒ずくめの武装警官の姿がフラッシュバックされた。ラバーをおもわせる生地のスーツ。漆黒のバイザーのついたヘルメット。軽く腕を組んで壁にもたれ、夜を貼りつけたようなバイザーの下で、赤い月の形に、唇が薄く微笑んでいる。
(おまえを殺すかもしれない相手の顔くらいは、知っておいてほしくてな)
すなわち、いよいよ抹殺にかかってきたわけだ。おれはほとんど無意識に、煙草に火をつけた。呆けたように煙を吐く男の前で、麗子は「カヲリ」と親友になった経緯から、淡々と語り始めた。学生時代に知り合ったこと。富豪の娘らしい身の上。末流とはいえ、竜門寺家の血筋であること。政略結婚を断り続けるうちに、クーデターの渦中に呑まれて……
そして「人食い私道事件」ミッションの当日、突然彼女が麗子の前にあらわれたこと。
「電話で呼び出されたのは、ミッションの五日後でした。どうして人類刷新会議の武装警官になったのか。どのような任務を帯びているのか、そのへんの情報は全く得られませんでした。プライベートで呼び出したのだと彼女は言いました。親友として、この件を依頼するという意味でしょう」
彼女は口ごもり、ためらうように視線を逸らした。ワインのせいか、頬をほんのりと赤く染めて。煙草を揉み消して、おれは指を組んだ。
「よくわからないんだが。カヲリと名のる女は、組織の一員としてではなく、あくまで個人の意志で、おれを何らかの事件に引きずり込もうとしているんだろう。おれときみが顔見知りだとわかったから、生き延びるチャンスを与える、ということかな」
「そうなりますね」
「きみにしては歯切れのよくない。勝手に民間の組織に情報を流すことは、その、カヲリにとっても相当なリスクをともなう筈だ。きみとカヲリが親友だから? それはわかるが、おれを助ける理由にはならない。どうして、きみが秘書をつとめる会社の一契約社員に過ぎないおれを、彼女が庇う必要がある?」
茨城麗子が狼狽するさまを、おれは初めて目の当たりにした。上気したように頬を染め、目をしばたたかせ、喘ぐように残りのワインをひと息に飲みほした。おれが瓶を傾けて注ぎ足すと、消え入りそうな声で「すみません」と言い、胸に手を当てて呼吸を整えた。いずれにせよ、不可解なリアクションである。
「すみません……たしかにこれで彼女が有無を言わさずエイジさんを抹殺する可能性は、ほとんどなくなりました。ただし、この依頼は形を変えた死刑宣告とも言えるのです」
「興味深いね。依頼の内容を聞かせてくれ」
新しい煙草に火をつけた。けれど、それを吸うこともほとんど忘れるほど、彼女の語る内容は驚愕に満ちていた。複雑な話ではない。人類刷新会議は、イーズラック人によって大規模な麻薬の密売が行われているという情報をキャッチした。巨利につながる組織的な商売を嫌うかれらとしては、例外的な行動である。ゆえになかなか発覚しなかった。
売られていた麻薬は、Kr-13。第二次百年戦争中に開発された合成麻薬で、通称「クラーケン」と呼ばれる。神経に強力に作用するうえ、極めて危険な副作用を引き起こすといわれ、戦後を通じて徹底的に規制されてきた。現在も、少量の所持が発覚しただけで、少なくとも十年は出てこられない。まして売買にたずさわろうものなら、銃殺刑は必至である。
「クラーケン」の副作用については謎が多い。当局が緘口令をしいているため、巷間では様々な憶測が飛び交っている。
諜報部員たちは、暗躍するイーズラック人の密売者を追ううちに、ようやくアジトと思われる場所を特定した。それがここBB-33地区の東の郊外に位置する、旧第九街区……俗に「幽霊船」と呼ばれる所だ。当然、諜報部員たちが潜入したものの、次々と送り込まれた十九名のうち、誰一人生きては戻らなかった。
「つまり栄光ある二十人めの犠牲者に選ばれたのが、このおれであると?」