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三日後に扉がノックされた。まる二日間、ほとんどベッドから出られなかった。
さいわい骨は折れていなかったが、蹴られた腹がステキに痛んだ。目覚めている間は呻き続け、断続的な眠りにおちては悪夢にうなされた。寝ても覚めても、不死の男の幻影に追いまわされた。
ワームやIBではなく、曲がりなりにも、おれは人を撃ったのだ。人間の心臓に弾を撃ちこんだのは、あれ以来だった。あのとき、銃口の先には妻がいた。
理論上、おれが撃った相手は「人間」ではなかったと言える。そう何度も自分に言い聞かせてきたけれど、やはり妻を撃ったという事実は揺るがない。そう、理論上、あれは一種の夢にほかなるまい。けれど夢と違って、おれは硝煙のにおいを嗅ぎ、熱い返り血を浴びた。目の前で、妻は血に染まった手を差しのばした。
(な……ぜ、撃った、の……?)
跳ね起きた。電話が鳴っていた。
汗にまみれて、荒い息をついている間に、ベルの音は途切れた。雨が降っていることに初めて気づいた。
布団から這い出し、ベッドに腰かけた。つぶれた箱の中に、煙草が一本だけ残っていた。雨の音を聞きながら、しばらく煙をふかしているうちに、刺すような空腹を覚えた。気がつけば熱は下がっているし、筋肉の隙間に十本のナイフを刺し込まれるような腹部の痛みは遠のき、鈍いうずきに変わっていた。
よろよろと立ち上がり、ごみを掻き分けながら、台所に入った。戸棚に缶詰はなく、冷蔵庫は空っぽ。未練がましく手を突っ込むと、合成ビールの缶が一本だけ、奇跡的にサルベージされた。貪るように飲みほしたところで、ノックの音が五臓六腑に響いた。
「お電話したんですが」
紙袋から食み出したバケットとネギ。茨城麗子は控えめな笑みを浮かべて、玄関に立っていた。
「お加減はいかがですか」
「なぜ寝込んでいたことを知っている?」
「失礼します」
質問を無視したまま、彼女はハイヒールを脱いで上がりこんだ。リビングを見渡して眉をひそめ、次に何の断りもなくダイニングまで進んだあげく、溜め息までもらした。
いい加減、闖入者には慣れていたけれど、曲がりなりにもここはプライベートな空間である。多少臭かろうがキノコが生えようが、第三種以上のワームでも湧かない限り、報告する義務はない。まして、ワットの秘書に溜め息をつかれる筋合いはない。
「シャワーを浴びて来られては? その間に食事をご用意しますわ」
抗議しようと口を開きかけたところで、彼女は買い物袋をテーブルにのせた。外套を脱いで椅子の背にかけ、頭の後ろに両手を回して髪を束ねた。必然的に、圧倒的な胸の隆起が、目に飛び込んできた。おれは打ちのめされたように、すごすごと浴室へ退散した。
赤錆くさい湯を頭から浴びると、久々に生きた心地がした。汗と一緒に、どろどろの悪夢が流されてゆくようだ。けれどもやがて、足もとがぐらぐらするような、不安定な感覚にみまわれた。酔いが回ったのではない。むしろ頭は冴えてゆき、冴えるにつれて、当たり前の疑問が、むくむくと頭をもたげてきた。
茨城麗子が、今、おれの部屋にいる? のみならず、夕食を作っている?
(なぜだ?)
そもそも、麗子がこの部屋に入ったことなど、思い出す限り一度もない。仕事の打ち合わせなら、会社で済ませたし、急ぎの資料を届けるときは、喫茶店で待ち合わせた。むろん、麗子は資料を受け取れば、さっさと席を立った。二人ぶんの代金を支払って。飲みかけのカップに、口紅の跡も残さずに……
(あり得ない)
混乱する頭をタオルで拭きながらダイニングに戻った。デニム地のエプロンを身につけた彼女は、レードルを片手に、おれの姿をみとめると、マニュアル的な角度で頭を下げた。
「いきなり押しかけてしまって、申し訳ございません」
おれは言葉をなくした。シャワーを浴びていたのは、せいぜい二十分かそこいらだ。その間に彼女は驚異的な早さでダイニングを片付け、あまつさえ、雑誌の口絵を切り抜いたような料理を、テーブルいっぱい並べていた。
「お座りになって。まる二日ほど、何も口に入れていらっしゃらないのでしょう」
椅子を引きながら、麗子は嫣然と微笑んだ。