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30(2)

 黒猫は相変わらず優雅に尻尾を立て、笑顔ともとれる表情でおれを見上げていた。思わず周囲に目を走らせたが、飼い主らしき姿はない。一人で、いや一匹で散歩しているのだろうか。かれの前にしゃがみ、指で軽く顎の下を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。

「すっかりなついていますね。ぼくには近寄ろうとさえしなかったのに」

 そう言って身をかがめた一彦は、軽く驚きの声をあげた。どうしたのか尋ねると、「首輪」、とだけ答えた。

 なるほど、プルートゥは赤い金属製の首輪をつけていた。ありふれた首輪なので気にもとめずにいたが、表面をよく見れば、細かい模様がびっしりと彫りこまれていた。古代遺跡の彫刻をおもわせる、凝った幾何学模様である。一彦がつぶやいた。

「電子回路みたいですね……まるで最新式の読み取り機だ」

「読み取り機?」

 言われてみれば、幾何学模様は精密機械のようでもある。やはりメカマンだなと感心しつつも、かれの例えには、シュールな違和感を覚えた。何故に読み取り機?

「ええ。レンズ式に代わって、最近、より暗号性の高いロジック・ストーム型が出回り始めているんです。旧式に比べれば、例えばメモリーカードを改ざんされたり、盗み見られたりする可能性が、八十パーセント以上も低くなります。あまりの性能に、かえって刷新が規制をかけてきたくらいですよ」

 まるでかれの話に相槌をうつように、プルートゥは小さく鳴いた。技術的なことは珍粉漢粉だけれど、それにつけて思い合わされるのが、例のツァラトゥストラ教の紋章が入った運搬用チャペックだ。やつのメモリーカードの解析に、稀代の変態ハッカー、相崎博士でさえてこずっていた。

 しゃん、という鈴の音が頭上で響いた。

 気の迷いではなく、小さな鈴をいくつも連ねた音に違いない。驚いて見上げると、いつのまにか空はすっかり晴れわたり、スモッグによって拡大された月が君臨していた。ほぼ満月に近く、クレーターの形まで確認できそうだ。そうして、まるでたった今その天体から降りて来たように、ほっそりとした女のシルエットが映えていた。

 きめ細かな長い髪が、微風に揺れていた。どうやって登ったのか、うずたかく積まれた廃材の上で、アリーシャは猫のように小首をかしげ、おれに微笑みかけたように思えた。彼女が身動きすれば、しゃん、と、また鈴の音が響く。おれは何度も目をしばたたかせた挙句、彼女の左の手首と右の足首に、いくつかの鈴がリボンで結びつけられていることを確認した。

「先程のお礼を」

 彼女はたしかにそう言ったようだ。やがて細い両腕が翼のように広げられ、頭上高く持ち上げられると、クロスするときに鋭く鈴が鳴る。その音を、ゆっくりと上昇する右足の鈴が、さらさらと装飾する……不思議な舞踏だった。水の中を漂うような、ゆるやかな動きに身をまかせながら、静止するときは、一枚の絵と化したような、言い知れぬ緊張をはらんだ。

 手足もさることながら、首の動きがアクセントとなり、時には優美に、時には野蛮なまでに、異国ふうのダンスを際立たせた。水のように風のように彼女は踊った。鳥のように獣のように、あるいは奔放に、あるいは思慮深く彼女は踊った。この壊れた世界、薄汚れた都市にありながら、彼女の本来の体は、どこまでも続く青い草原の中にいるようだった。

 おれは目を見開いた。踊るアリーシャの周りには、アマリリスが作ろうとしていたジグソーパズルそのままの、天国のような風景が見えたのだ。

 叫び声を上げそうになったとき、不意にダンスが終わった。巨大な月を背景に、軽業師のように彼女の体が宙を舞ったかと思えば、おれの目の前に、ふわりと降り立つ。エキゾチックな衣装がひるがえり、薔薇の香りがたちこめた。

「逃げてください」

「え?」

「憎悪の塊があなたを追って来ました。よみがえりし死者。それはデビルフィッシュの呪いなのです」

 アリーシャが何を言っているのか、もちろんさっぱりわからない。正気を疑ったほどだ。けれど、正面からおれを見つめた、ほとんど銀色に近い瞳は、決して夢に溺れていない。真摯な危惧が読みとれた。間もなく闇の中から、ぜいぜいと喘ぐような声が近づいてきた。荒い息づかい。にもかかわらず、その呼吸には明らかに生命の存在が感じられなかった。

 地の底へ通じる暗い穴から吹き上げる、風の音にも似て……一歩ずつ、つまずくような足音がそれに混じった。振り返ると、奇怪な人影がふらふらと揺れていた。そいつがさっきのブローカーの仲間、腺条ワームをおもわせるヤク中男だとわかるまで、五秒ほどかかった。

 首は不自然な角度に折れ曲がり、膝の関節は壊れたよう。だらりと垂らした両腕が振り子のように揺れていた。額にこびりついた、どす黒い血。完全に白目を剥いており、横に開いた口はニタニタと笑っているようで、異様に長い舌が食み出していた。口や目尻や鼻から垂れてくる粘液は、膿のようで得体が知れない。

 報復に来たのだろうか。それにしても、この男の姿は尋常ではない。もし犬に寄生するサミダレムシの突然変異体があらわれて、人間の体を乗っ取ったとすれば、ちょうどこんなふうだろう。いや、その可能性がなきにしもあらずなので、おれは身震いした。さっきアリーシャが口にした、「よみがえりし死者」という一言が、みょうに引っかかっていた。

 ヤク中は突然両腕を前に突き出すと、この世のものとは思えない咆哮を上げて、突っ込んできた。

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