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いざこざに顔をつっこむのは主義じゃない。それでもつい手を出してしまったのは、おそらく彼女がアマリリスと似ていたからだろう。
黒猫がヤク中男の額を引っ掻いたあと、一瞬、店内の時間が止まった。おれはポケットのM36から指を放し、かわりに外套の中に手を入れて、パイソンを抜いた。ゆうらりと立ち上がり、ぶよぶよした首領の頬に迷わず銃口をのめりこませた。
店内の空気にも温められることなく、銃口はきんきんに冷えている筈である。案の定、首領は「ひっ」と声を洩らし、体を硬直させた。瞳だけ動かして銃を見、次におれへ視線を移した。もちろん床を転げ回っているヤク中以外の連中にも、兇悪な六インチのパイソンがよく見えたことだろう。
「ヤクはあるかい?」
最近の不摂生が幸いして、おれの顔は蒼く頬はこけ、目の下に隈ができていた。髪はぼさぼさで、眼光だけが鋭く、実際カタギではなし、やばそうなにおいがぷんぷん漂っていただろう。すみやかに相手を怖がらせるには、狂人を演じるに限る。しかも過去に中毒していた経験上、禁断症状の演技はお手のもの。
文字どおり「頭」を押さえているので、仲間は手をだせない。むしろ相手がカタギでないほうが話は早い。おれがどんな種類の人間か、黒光りするパイソンが何よりも雄弁に物語ってくれる。首領は頬をぴくぴくと痙攣させ、からからに乾いた声を発した。
「何が欲しいんだ。ド・クインシーか? それともコクトオ?」
「けっ。古臭え、しけたやつしかねんだな」
と一蹴したものの、両銘柄とも、宇宙の果てまでぶっ飛ばされる薬であることは体験済み。ジャンキー特有の腕と体を斜めにクロスさせた姿勢を保ち、口の端から涎を垂らしながら、薄笑いを浮かべた。むかし、おれの薄笑いほど不気味なものはないと、妻にからかわれたことがある。
「まあいいさあ。何でも結構だから、ありったけ置いて行きなよ、ベイビー」
今はこれしかないと言いながら、首領は下っ端の一人へ目配せした。おれは左手でM36を抜いて、下っ端の方へ向けた。けれど「下手な真似」をする気は毛頭ないらしく、内ポケットから煙草の箱を一つ取り出し、震える手で差し出した。不法ギルドを笠に着ているが、所詮中身はシロウト。ただのブローカーに過ぎない。
「けっ。そんなものより、酒のほうが百万倍ましだぜ。いいか、ベイビー、一度しか言わねえからよく聞けよ。目障りだからとっとと失せろ。さもねえと、てめえのぶよぶよしたほっぺに、とびっきりのご馳走を食らわすぜえ」
痙攣的に笑いつつ、舌なめずりする音をたっぷり聞かせてから、おれはやつの臭い耳に顔を近寄せ、囁いた。
「重炉心弾をな」
こけつまろびつ、といった古い言い回しもそのままに、連中が店を去るまで、それから三分もかからなかっただろう。腺条ワームは目を回して額から血を流しつつ、両脇を下っ端に支えられながら退場した。あれほど威勢がよかったわりに、猫に引っ掻かれたくらいで情けないやつである。
ついでに客が一人もいなくなったことは言うまでもない。
「すまなかったな、親爺さん」
「いや、おかげで店を壊されずにすんだ」
おれは肩をすくめた。酔狂で下手くそな芸を披露してしまったような、ばつの悪さを感じていた。礼を言われても非難されてもこまるで、アリーシャのほうはわざと見ないようにした。それでも彼女がカードを一枚一枚、大事そうに拾い集めていたことは知っていたし、店を出るとき、じっと背中に注がれる視線にも気づいていた。
「飲みなおしますか」
空き地にさしかかったところで、一彦が尋ねた。すでに風はなかった。立ち回りを演じたせいか、酔いが回ったのか、ほとんど寒さを感じない。おれは廃材にもたれ、蔦のからまる常夜灯の下で、ポケットに手を入れた。取り出した煙草の箱は、さっき下っ端が落としていったもの。どさくさに紛れて拾っておいたのだ。
「それよりカズ、こんな銘柄を見たことがあるか」
光にかざすと、箱の表面には海の中から帆船に触腕をからめた、巨大な蛸の絵が描かれていた。頭部は大型帆船の三倍はある。あの状況下で、下っ端がニセモノを差し出す余裕はなかった筈。だとすると、これは煙草に偽装したクスリだと考えて、まず間違いないだろう。
一彦は「さあ」と首をひねった。封を切って、一本取り出した外見は、やはり煙草と変わらない。上のほうを揉みほぐすと、最初は掌の上に茶色い草がこぼれたが、やがてさらさらと白い粉が流れ出た。指先につけて舐めてみたところ、阿片に似ているが、どうやら合成ものとおぼしい。たいていの麻薬は試したおれも、こいつはたぶんキメたことがない。
もとどおり粉の上に草を詰めて、箱に戻した。足もとで猫の声がした。