29(4)
(呆れたもんだな)
おれは溜め息をついた。よその者は雇わないと亭主は言ったが、履歴はおろか、現住所すら知らないというのだ。それでもかれが彼女を「身内」と考えるのは、同じ守護精霊をもつ「トーテム」に属しているからにほかならない。
背もたれに肘をかけ、肩越しに目を向けた。ならず者たちが占めるテーブル席では、酒や料理が隅に追いやられ、空いたスペースにアリーシャが一枚ずつ、裏返したカードを並べてゆくところ。首領の肥満漢は、もはや彼女の肩に手を回しておらず、精一杯縮こまった姿勢で、カードの行方を凝視していた。
なるほど、カードを使うときの彼女は、一種近寄りがたい神秘的なオーラに包まれていた。背筋をしゃんと立てたまま、つややかな黒髪の光沢だけが揺れる。長い睫毛が、伏目がちな瞳に青い影を添え、生真面目に結ばれた唇はあでやか。
どうしてもその横顔は、ジグソーパズルに熱中しているアマリリスを連想させた。
けれど何よりも目を惹いたのは、あまりにもしなやかな彼女の指と、その動きだ。まるで未知の楽器を演奏するようで、音楽が聞こえてこないのが不思議なくらい……幾何学的な形にカードを並べ終えると、アリーシャは手を止めた。テーブル席の周りだけ時間が静止した。
「未来をご覧になりたいですか。後悔なさいませんね?」
目を伏せたまま、彼女はつぶやいた。古代の鈴が鳴り響いた気がした。山賊の首領は身を縮めたまま、こくりとうなずいた。ここからは見えないが、神秘に気おされて、瞠目しているに違いない。生唾を飲みこむ音が、たしかに聞こえた。
「わかりました。では、未来をお見せします」
褐色の手がひるがえるとき、未知の美しい蝶が飛ぶさまを見る思いがした。中心に近い位置から、カードは一つずつ、確実に表に返されてゆく。妻が一デッキ所持していたので、タロットカードの絵柄は知っていたが、それとは似て非なるものらしい。緻密な彩色がほどこされた中世ふうの絵柄は、一枚一枚が美術品と呼べるレベルだ。
一枚を除いて、すべて表に返されたあと、アリーシャはテーブルの端に軽く手をかけ、静かにカードを「読み」始めた。並んでいるカードは十枚で、残りは手前に重ねられている。やがて彼女は口を開いた。囁くような声だが、おれの耳までよく響いた。
「これは不正な取り引きです」
「わかりきったことを言うんじゃねえ」
腺条ワームのように痩せた男が、彼女の向かい側でニヤリと口の端をゆがめた。骨ばった手で弄ぶナイフの光が目障りだ。アリーシャはけれど、まったく気にかけず語を継いだ。
「あなたがたが手を出すには、相手は大きすぎます。行く手に待ち受けているのは、あまりにも巨大な憎悪です。あなたがたはデビルフィッシュに憑かれ、悲惨な死をむかえるでしょう」
椅子を蹴倒す音を響かせ、腺条ワームが立ち上がった。真っ青な顔をして、口の端から泡を吹きながら、紙のように白い唇を震わせている。典型的なヤク中である。今にも踊りかかろうとしたところ、よせと叫んで、首領が肉厚の手を広げて制した。次にゆっくりと席を立った肉厚の顔に、ナマズをおもわせる不快な笑みを浮かべて。
「あんまり舐めたことを言うなよ、ねえさん。それ以上減らず口を叩くと、次はこいつのナイフが、間違いなくあんたの咽をえぐるぜ。おれたちにはウラがあるってことを、忘れねえでほしいもんだな。イーズラック人を一人どうこうしたところで、何とでも言い逃れできるんだ。しかもこいつは、小娘をなぶり殺しにするのが三度の飯より好きときていてね」
「約束どおり、未来をお見せしただけです。三千サークルいただきます」
アリーシャの声は少しも震えておらず、必要最小限の角度で肥満漢を見上げた。硬質な無表情に憤ったのか、首領はかん高い声を張り上げた。
「ふざけるな! おれたちの命は、たったの三千サークルぽっちか。いったいどこのどいつが、おれたちを殺っちまおうってんだ?」
こいつは内心、占いの結果に動揺していたらしい。アリーシャは小さくうなずくと、しなやかな右手をひるがえし、残り一枚のカードを表に返した。
「三つ首のドラゴンです」
「それがどうした」
「あなたがたを殺す者」
テーブルがひっくり返った。花びらのようにカードが宙を舞い、ぎらぎらとナイフをふりかざし、奇怪な両棲類のような恰好で腺条ワームが飛びかかった。M36を抜こうとしたおれの手を、とっさに一彦が制した。同時に、黒い影が目の前をよぎり、次の瞬間、怪鳥じみた悲鳴が響きわたる。
鋭い爪で引っ掻かれた顔から血しぶきを上げながら、腺条ワームは背後にもんどりうった。倒れたテーブルの縁に飛びのると、プルートゥは優雅に尻尾を立てたまま、アリーシャのほうを振り返り、小さな声で鳴いた。猫がウインクすると、緑色の火花がぱちりと弾けた。