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「ザー・ラ・ドベルカ」

 薔薇をおもわせる香水、というよりも、香木を焚きしめたような匂いがした。それがはっきりと感じられるほど間近で、おれと目を合わせたまま、彼女は立ち止まり、小首をかしげて微笑んだ。やはり瞳の色は白に近いが、亭主のように濁っておらず、青みすら帯びて透きとおるようだ。

 体つきから、最初は十五にも満たない少女に見えたが、ハタチは過ぎているとおぼしい。おれが驚きの眼差しを引き剥がせなかったのは、彼女が醸す雰囲気が、アマリリスにとてもよく似ていたからだ。瞳の色をそのまま移したような声で、彼女は尋ねた。

「どこかでお会いしましたかしら?」

 少しアクセントに訛りがあるが、充分に流暢な喋りかた。あるいは日本人の血が混じっているのかもしれない。知り合いに似ていたのだと、むしろおれのほうが、しどろもどろで答えた。

 真後ろのテーブル席で、どっと笑い声がわいた。下手な口説き文句と受け取ったのだろう。見れば山賊じみた、あまりガラのよくない連中が陣取っている。占い師はおれに会釈しながら、すまなそうに眉をひそめた。山賊どもはしきりに彼女を手招きし、下っ端の一人を立たせて代わりに座らせた。大将とおもわれる肥った男が、細い肩に手を回した。

「いつもあの調子なのか」

 カウンターに向き直り、多少の非難をこめてつぶやいた。けれども亭主は無言のまま、代わりに一彦が答えた。

「今夜はたまたま、変な連中が来ていますね。不法ギルド系の土地のブローカーあたりでしょう」

 不法ギルドは旧首長連合と癒着して、おおいに幅を利かせていたが、政権交代後、一応は権力との繋がりを絶たれたことになっている。とはいえ、いつの時代、どんな場所でもかれらが撲滅された話など、聞いたためしがない。ヒトの作り上げた社会はどんな形態をとろうとも、必ずどこか歪んでおり、そこには必ず、不法ギルドを必要とする者たちが生じる。

 現在かれらは、かつて首長たちが所有していた土地を切り取り、転がす事業に血眼になっている。刷新会議による接収が追いついていないことは、人食い私道の例からも明らかである。いわば旧恩のある首長に掌を返し、かれらの遺産に食らいついて、骨までしゃぶり尽くそうという構えだ。

 コツン、と何かが足首にぶつかった。

 床に目をやると、黒猫が緑色の瞳で、じっとおれを見上げていた。占い師が抱いていた猫だ。夜そのもののように、つややかな毛並み。ピンと尻尾を立て、前足を揃えた立ち姿は、いかにも姿勢がいい。もともと奇麗な上に、手入れが行き届いている。決して動物愛好家でないおれが嘆息するほど、美しい猫だ。

 亭主にもう一つ匙をもらい、皿から肉を選んで、小さな肉食獣の鼻先に差し出した。猫はにおいをかいだあと、敏捷に小さな牙を剥いて塊をくわえ、床に落としてから食べ始めた。匙の中まで奇麗に舐めてしまうと、おれを見上げて、可愛らしい声でニャアと鳴いた。

「名前は何だろうな」

「猫ですか。それとも、飼い主のほう?」

 両方知りたいね。一彦にそう答えると、意外な方角から声が聞こえた。日本語がほとんど通じないのかと思い始めていた、亭主が口を開いたのだ。

「名前はプルートゥ。美しく勇敢な男だ。占い師は、アリーシャ」

 どこに冥王のような男がいるのか、思わず辺りを見回したところ、また足もとで猫が鳴いた。どうやらかれの名前らしく、まるで飼い主のほうが付属物みたいな言い方である。そういえば、店の名も「黒猫」というくらいだし、亭主はよほどの猫好きなのか。かたくなに沈黙を守っていた口が緩むのをみて、おれは話しかけた。

「あんたがあの子を雇ったのかい」

「そうだ。たとえ敬虔なイーズラックでも、よそ者は雇わない。アリーシャはおれと同じトーテムの生まれだ」

 トーテムとは、守護神といった意味だろうか。かれらのうちでも最も伝統的な「イーズラック」は、おのれの血筋をさかのぼれば、力の強い動物や植物に行き着くと信じている。鹿なら鹿、狼なら狼、樫の木なら樫の木が自分たちの先祖であり、血族はそれらの精霊に守られていると考える。

 亭主とアリーシャのトーテムは「猫」なのだろう。なるほど、しなやかな占い師の肢体は、月を背景に四つん這いになれば、猫と見紛うばかり。ずんぐりむっくりした亭主もまた、どこかずんぐりむっくりした猫を連想させた。

「あんたがここに店を出したのは最近だろう。以前から、彼女とは一緒だったのか」

 亭主は首を横に振った。猫の話題にしか興味が湧かないのか、また口を硬く閉ざそうとしていた。ぶつぶつ言う声が、かろうじて聞き分けられたが、それによると、かれはアリーシャの素性をほとんど知らないらしい。

 ここに店を出すようになって間もなく、彼女はふらりとあらわれた。一見して占い師であることが知れた。彼女が抱いていた猫、プルートゥが気に入ったので、うちで働かないかともちかけた。今でもアリーシャがどこから来てどこへ行くのか知らないし、興味もないといったところか。

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