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「お詳しいんですね」
「じつは若気の至りで、しばらく住んだことがあるんだ。ほんの半年程度だがね。兵役を解除されてすぐの頃だから、もう七年くらいたつのかな」
立ち止まって煙草をくわえた。手で覆い、何度マッチをすっても、風に火をさらわれてしまう。肩を叩かれて振り返ると、一彦は銀色のライターをかざし、小型の火炎放射器なみの火柱を寒空に噴き上げてみせた。眉毛を焦がさないよう注意しながら、顔を近づけた。
「ありがとう」
「でもいったいどうして『幽霊船』に?」
「悩み多き年頃だったからね。雇い主があっさりと首長連合に降伏したのをきっかけに、兵隊稼業にも嫌気がさしていた。まあ、雇い主は敗残の兵にも給付金をくれるという、粋なはからいを見せてくれたので、少しばかりカネはある。ほとぼりを冷ます時間もいるので、しばらくの間、スラム街に身を隠すことにしたのさ」
噂に聞く犯罪者の楽園とはどんな所か、一度見たい気もした。それになんといっても当時は若く、エネルギーを持て余していた。ちょっとした鬼退治の心境でも手伝ったのだろう。
「ところが、いざ乗り込んでみれば、ずいぶんイメージと違っていてね。無法地帯は無法地帯なりの秩序が保たれていた。鬼のかわりに気のいいおじさんやおばさんがいて、薄暗い路地を子供たちがボールを追って駆け回り、若い娘たちがシーツを干しながら無駄話をしているといった具合だ」
電気工事店の中年夫婦が、二つ返事で下宿させてくれた。駆け出しの新聞記者だと名乗ったが、まったく疑われなかった。エイジという「偽名」も、じつはこのとき初めて用いたのだ。
夫婦はカノウさんいい、いつも忙しく立ち働き、それなりに儲けていたようだ。「幽霊船」で使用される電力の三十パーセントが、掘り起こされた旧世界の電線から引かれ、三十パーセントが独自の風力発電による。残りは地区の電線から盗んでくる。いずれにせよ供給は不安定なので、技師の存在は貴重だった。
かれらには十六になる娘がおり、「幽霊船」の中の学校に通っていた。学校といっても、かなりいい加減なもので、国家の指導要領など完全に無視。それこそ相崎博士を彷彿させる自称「学者」たちが、気ままに偏った知識を吹き込み、おかげで九九も満足に暗唱できない子供が、相対性理論については、かなり正確に理解していたりする。
(試験なんかないわよ。受けたい授業を受けに行くだけ。サボるってどういうこと? 勉強は面白いわよ。だって、知りたいことを教えてもらえるんだもの)
髪を真紅に染めて、意想外な場所にピアスをつけることを好んだ。色白でそばかすが目立ち、美人ではないが、よく動くドングリ目が可愛らしい。ここの良家の子女は常識として護身術を身につけているが、彼女はナイフを生き物のように操った。名前は、マキといったっけ。もし生きていれば、今頃はいい女に育っていることだろう。
「けっきょく『幽霊船』本来のコアな部分は、ほとんど覗かせてもらえなかった。新顔の自称新聞記者が半年住んだくらいでは、無理な相談だろう。正直、なかなか居心地よかったんだが、拍子抜けしたのも事実さ。また訪ねたいとは思いながら、おれも何かと忙しくなって、それっきりになっちまったが。あのスラム街は、今も昔のままなのだろうか」
一彦が口を開きかけたとき、暗がりから娼婦がふわりと飛び出し、おれの腕をとらえた。外套の下の体は驚くほど柔らかく、上品な顔をしていた。
「お兄さん、だいじょうぶ。だいじょうぶ」
中国系の訛りがあるが、案外「イーズラック」なのかもしれない。たとえ西方砂漠地帯の出身でなくとも、かれらの集団に属し、かれらの信条を実践していれば、イーズラック人とみなされる。かれらは富をたくわえること以外の悪徳を、悪徳と考えない。合意の上での商取引が成立すれば、何を売っても問題視しない。
もし魂が高値で売れるのなら、かれらは迷わず売るだろう。売った金を「イーズラック」の貧者にほどこすだろう……おれは思わず訊き返した。
「何がだいじょうぶなんだい?」
「お兄さん、わたし、慰める。わたし、お兄さん、慰める。だからだいじょうぶ。一万でいいよ」
そいつは魅力的だが。と、おれは素直な感想を述べた。あいにく今日は連れがいてね。これからあんたのお仲間の屋台で飲むつもりだ。あんたは奇麗だから、もし別の日に会っていたら、迷わず寝ただろうよ。おれもちょっとばかり残念だがな。そう言うと、彼女はあっさりと腕を外した。抱いていた水鳥が飛び立ったような、一抹の空虚さ。
「それなら、だいじょうぶ。縁があればまた会えるよ」
再び歩き始めると、一彦がくすくす笑いながら「いいんですか?」と訊く。
「いいんだよ。大仕事の後の一万くらい、ポンと出せるんだが、金を押し付けるのも失礼かと思ってね。それにもしあの女がイーズラックの信徒なら、信徒以外からのほどこしは受けまい。それよりカズは、『幽霊船』のその後について、何か知ってるんじゃないか。さっき言いかけただろう」
「ええ。旧第九街区といえば、最近かなりモメているんですよ。例によって刷新が街区の全住民に立ち退きを命じ、住民のほうは断固、篭城の構えをみせておりまして。包囲中の武装警察と睨み合っている恰好です」
「武装警察か……」
おまえを殺すかもしれない相手の顔くらい、知っておいてほしくてな。そう言ったコードネーム「カヲリ」の赤い唇が、まがまがしく脳裏をよぎった。