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 何十年ぶり、という一言が自嘲の色をおびた。驚いて目を向けたが、伏目がちな表情の中に、手がかりになるものは何も読みとれなかった。何十年か前に、かれはこれと似たケースに直面したことがあるのではないか。そんな疑問がわだかまるほど、その声は悔恨に満ちていた。

 次に顔を上げた博士は、いつもの傲岸不遜な面がまえに戻っていたが。

「しかしながら吾輩は、見解を変えるつもりはないのだよ」

「彼女の左手は戦闘を必要としている、と?」

「負け惜しみを言うのではないぞ。今回の一件にしたところで、いわばワクチンが効きすぎたようなもの。事前に接種していなければ、もっと取り返しのつかぬ事態を招いたことだろう。ベストとは言わぬ。だが、これでよかったと考えるべきだな」

 思わず、どんとテーブルを叩いた。手をつけぬままのコーヒーが受け皿にこぼれた。

「ワクチンというより、麻薬ではないですか。戦闘という麻薬を与え続けることにより、かろうじて禁断症状から逃れ続けるだけでしょう。何の解決にもならないどころか、彼女の中のIBをますます図に乗らせるだけじゃないか」

「忘れてもらってはこまるね、エイジくん。彼女自身が、イミテーションボディであることを」

 挑発的な眼差しから顔をそむけた。頭を抱えるようにして髪を掻きむしり、わからないと何度もつぶやいた……わからない。おれは主人面をしながら、アマリリスのことを何一つわかっちゃいない。そもそもイミテーションボディとは何者か、その答えがいったい誰にわかるというのか。

「混乱させてしまったのなら謝ろう。じつを言うと、このところ吾輩も驚きの連続なのだよ。彼女は変わりつつある。そしてこれからどう変わっていくのか、吾輩にとっても未知数だ。ただ一つだけ言えるのは、エイジくん、きみが彼女を変えているということだ」

「おれが?」

「むしろこう言うべきだったかな。彼女がきみを選ぶことによって、進化を始めたのだと」

 混乱を増したばかりで、研究所を出た。

 これから部屋に戻ったあとの自分の行動は、三文小説の次のページをめくるように、見え透いていた。ゆえに、一彦から飲みに誘われた時には、むしろ途方に暮れたのだ。目をまるくしていると、照れたように小鼻を掻きながら、かれは言う。

「この近くで面白い屋台を見つけたんです。イーズラック人がやってるんですが、商売はまっとうですよ」

 ちょっと支度をと言い置いて、一彦はガレージの奥へ消えた。イーズラック人が「まっとうな」商売をするいわれはないが、ニュアンスは伝わらないでもない。酒や料理の出所がどこであれ、客が満足できればそれで上等。だいいち一彦にせよおれにせよ、かれら同様、アウトサイダーに違いないのだから。

 かれを待つ間、ガレージのいつものテーブルで煙草に火をつけた。二葉はもう帰ったのだろうか。例の「監視カメラ」でおれを見つけて、不機嫌そうな顔を出すことを期待したが、薄闇に煙が棚引くばかり。静まり返った中に、ただ奥のほうから、鉄槌を打つような音が、断続的に聞こえていた。まだ一朗が作業場にいるのだろう。

 やがて戻ってきた一彦は、赤いキャップはそのままに、ツナギを脱いで、若者らしい小ざっぱりした恰好をしていた。

「兄貴を誘ったんですが……」

 意味ありげに奥へ目を遣り、肩をすくめた。外は少し風が出ていた。並んで歩きながら、二人とも外套のポケットに手をつっこみ、できるだけ首を縮めた。

 この辺りは闇市にペンキを塗ったような商店街で、何度歩いてもおれには迷路としか思えない。ごちゃごちゃと建ち並ぶ小店の群れには、来るたび目新しい何軒かが混じり、かわりに何軒もの店が消えていた。夜ともなれば迷宮的混乱は深まる一方で、路地の角を三つも曲がれば、西も東もわからなくなる。

「よく刷新が見逃しているな。ちょっと『幽霊船』を思い出したよ」

「なんですか?」

「旧第九街区の俗称だといえば、カズもわかるだろう」

「ああ、あそこ……」

 戦時中に要塞があった地点である。軍事施設は戦後解体されたが、あやしげな連中が移り住んでスラム化。殺人犯、窃盗犯、政治犯、麻薬常習者、変質者、不法入国者などの楽園になったと伝えられる。「幽霊船」の名は、要塞の構造を利用したスラム街の佇まいが、老朽化した帆船に似ているところからついたのだろう。

「幽霊船の中はミノタウロスも蒼ざめる大迷宮だとか。一度足を踏み入れたら二度と出られないとか、いろいろ取り沙汰されているが。実際のところ、恐ろしげな噂が一人歩きした部分は大きいんじゃないかな。住人の大半は、至極『まっとう』だろうし、またそうでなければシャバは成り立たないからね」

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