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お互いの健康を祝して、グラスが触れ合わされた。一口飲んだあと、麗子はしばらく無言で、カクテルグラスの中身を見つめていた。訊きたいことは山ほどある。現在の自分は九割がた、疑問符で構成されていると感じるほどだ。けれどそれゆえに、どう切り出せばよいのかわからない。
相手が笑う気配を感じて顔を上げた。
「相変わらずで安心したよ。口紅の跡をつけずに飲むところも、昔と変わっていない」
笑みを返して、またグラスを傾けた。今の仕事の半分は、喫茶店のウエイトレスと変わらないが、女性客のカップに残った口紅の跡を見るたび、眉をひそめてしまう。女の「本性」がそこに刻印されているようで、身につまされる。
唇をつけてもなお透明なグラスの縁を、軽く指で弾いた。麗子は学生時代、この技術を習得するのに、半年を費やした。「カヲリ」と知り合ったのも、ちょうどその頃だ。
学部は違っていたが、同じ区立大学の二年生だった。短い冬が始まろうとしていた。そのせいか、珍しく学食は満席に近く、テーブルの端の席を確保した彼女は、賭けてもいいが、目の前の空いた席には、軽薄な男子学生が座るだろうと考えた。
(じゃまでなければ、かけさせてもらうぞ)
予想はあらゆる面で裏切られたと言っていい。カレーライスを黙々と口へ運んでいた彼女の耳に、まず飛び込んできたのは、軽薄さからは程遠い、落ち着いた口調。次に顔を上げると、薄笑いを浮かべた男ではなく、目の覚めるような美しい女子学生が、上品に微笑んでいた。
当時のカヲリは長い真っ直ぐな髪を、頭の後ろで一つに結んでいた。弓道部にでも入っているのかと考えたほど、背筋をしゃんと伸ばした姿勢のよさに目をひかれた。
(わたしの顔に、聖なるしるしでも見つけたのか?)
(いえ、ごめんなさい。あんまり奇麗だったもので)
声をたてて、カヲリは笑った。話しぶりとは裏腹な、高く澄んだ声。半径三メートル以内にいた学生たちが、いっせいに振り向いた。
(じつはレズビアンだ、などという安直な展開は勘弁してもらいたい。もし本当にそうなら、心から謝るが)
そうではないかと直感したとおり、カヲリは富豪の娘だった。当時すでに富の大半は、首長の血族に集中していたので、彼女の実家もまた無関係だった筈はない。今も昔も、仕事以外では、あまり他人の生い立ちを詮索しない麗子だが、カヲリと付き合うようになってから、竜門寺家の影がいやでもちらつくようになった。
ただ、姓が異なっていたし、血族会議に招かれるほど濃い繋がりはなかったらしい。むしろカヲリの父親は凄腕の実業家で、新東亜ホテルに関する何らかの権益を独占し、莫大な富を築いたという噂だ。
麗子とは、気が合ったという以外にない。
お互いに淡白で、べたべたした付き合いは好まないほうだが、それでもお互いが「親友」であることに疑問の余地はなかった。大学を出てからも、当然のように二人の関係は続いた。麗子は大手商社に勤め、カヲリはただぶらぶらしていた。
(どういうわけか、わたしには勤労意欲というものが皆無だ。おかげさまで、何もしなくても食べてゆける身分だからな。せいぜいありがたく利用させてもらうよ)
実際には、彼女が言うほど気楽な身分でないことは、よくわかっていた。彼女の父親は金銭だけを信じる男だった。美しい娘を政略結婚に使わない手はなく、相手候補の筆頭には、またしても竜門寺の名が挙がっていた。ゆえに何年もの間、彼女が父親の圧力をかわし続けてこれたのは、奇跡と呼ぶに値した。
やがて人類刷新会議の猛攻が始まり、都市地区を中心に、内戦状態に突入した。ただし、歴史家たちはこれを「戦争」とは呼ばず、クーデターと位置づけている。それほど電光石火の勢いで政権交代が行われ、首長連合は速やかに瓦解したのだ。
混乱の中で麗子は職を失い、カヲリの行方はわからなくなった……五日前、人類刷新会議の武装警官となった彼女に、再会するまでは。
「わたしだと気付いていたのか?」
「平静を保つのがやっとだった。でも、あなただとわかったからこそ、エイジさんを撃たないと確信できた」
「ふん、見くびられたものだな」
そう言った声に不機嫌な調子はなく、ただもの憂げな表情でグラスを傾けた。一年の歳月の中で彼女の身についた、麗子の知らない表情だ。
カヲリの行方がわからなくなっている間も、麗子は月に一度ほど絵葉書を出し続けた。彼女の実家は刷新会議に接収され、両親もまた行方知れずだが、読まれる確率はゼロではないと考えて。あえて封書にせず、自身の簡単な近況だけを添えた。
「葉書はすべて読んだよ。寝てもいい男がいると書いてあったが、それがあいつなのか」
あやうくドライマティーニを吹きそうになり、麗子はおもうさま噎せた。