24(2)
十メートルほど先の闇の中に「鬼火」が二つあらわれた。
プラズマの蒼い炎。ひとつは、そのまま粘土のように形を変えて、双頭の犬と化した。山猫のように大きく、爬虫類じみた顔をして、四つの眼窩の中にも鬼火が詰まっていた。もう一つの炎は卵のように、中に女の子の形を宿した。十歳くらいで、肩のふくらんだ青いワンピースを着て、リボンのついた帽子をかぶり……赤い靴を履いていた。
双頭の犬はめらめらと揺れながら、威嚇するように身を低くした。地響きめいた唸り声が聞こえ、炎の涎がしたたると、石畳の上で、蝋をたらしたように燃えるのだ。しっ、と声を上げて、少女は犬をたしなめた。笛を吹いたような、うつろな声。揺れる炎の中にいるせいか、とても人形には見えない。
次に少女はこちらに向き直り、つ、と右手を差し出して、おいでおいでをした。炎の切れ端が何匹もの蒼いチョウと化して、彼女たちの周りを飛び交った。幻惑だ。一種の電気催眠術だと理解してはいるが、頭の奥がじんとしびれ、甘い唾液が分泌された。炎の中から、少女はにっこりと微笑みかけた。
「だいじょうぶか?」
二葉の顔を覗きこむと、見開かれた目の中で、虹彩が収縮を繰り返している。よくない兆候だ。軽く頬を叩くと、びくんと肩が震えた。大きく目をしばたたいた。
「ショーの前座に、つい見とれちゃったわ。行きましょう。真打の所へ案内してくれるみたいだから」
バレリーナの動作で、赤い靴の少女はくるりと背中を向け、先に立って歩き始めた。双頭の犬はぐにゃりと溶けて、巨大なアメーバーと化してうずくまると、そのままずるずると少女の背に従った。ひと気のない深夜の待合室に、振り子の音だけが鳴っているように、少女の靴音がコッチコッチと響いた。
アメーバーは這いながら、プラズマの蝶を一面にばらまいた。また炎の一部はトカゲと化して走りまわり、時おり蝶を捕らえては、貪欲に呑みこんだ。中には背中から団扇状の羽が生えたやつがいて、こいつらは木から木へと飛び移りながら、空中で蝶を襲うのだ……ぱん、と頬に刺激が走った。
「ほら、目が泳いでる。ジャンキーはとっくに卒業したんでしょう」
「そのネタ、どこで仕入れたんだ?」
頬を押さえたまま小声で尋ねたが、二葉は片目を閉じただけ。たしかにおれは処理班を辞めたあと、重度の薬物依存症におちいった時期がある。それをことさら吹聴した覚えはないが。ともあれ今の一発で、だいぶ頭がすっきりした。プラズマが捏ね上げた蒼い悪夢の洪水も、あの極彩色の幻覚には及ぶまい。
徐々に、ポイントに近づきつつあった。
噴水は陰火を噴き上げ、常夜灯が明滅し、メリーゴーランドは音もなく回っていた。今や蝶にかわって、髪の毛状の触手を地面に引きずりながら、アンドンクラゲが浮遊し、水盤からは、脚の生えた魚が這い出してきた。靴底で陸棲の貝がぐちゃりと潰され、割れた殻の中で蛸に似た生き物がもがいた。
極力それらを無視しながら進むうちに、先を歩く少女が足を止めた。闇にこだまを返していた靴音が消えると、耳鳴りに似た静寂につつまれた。壊れたベンチ。梯子の取り外された滑り台。ジャングルジムには中が見えないほど蔓草が絡みつき、シーソーは永遠に傾いたまま……不意に、少女の姿が見えなくなったので、あわてて視線をさまよわせた。
背の高い常夜灯が、広場の中央でぽつんとともり、その下のぶらんこを照らした。すっかり錆びた鉄柱の間に、二つ並んだぶらんこのうち、ひとつは片方の鎖が外れていた。少女は、もう一方に腰をかけ、赤い靴を路面につけたまま、軽くぶらんこを揺らした。
キイ、という音がかん高く響いた。おれは神経を掻きむしられる思いがした。
少女までの距離は、もはや五メートルにも満たない。にもかかわらず、彼女は数日前の夜に見た等身大のビスクドールではなく、明らかに生身の女の子だった。相変わらず彼女の全身から、鬼火が放出されているが、そのせいで生じた錯覚とは思えない。
言葉にならない呻き声が、おのずと洩れた。暗雲のようなどす黒い憂鬱が胸から湧き出して、体じゅうに広がる一方で、頭の中が真っ白に染められてゆく。パニックだと知りながら、どうすることもできない。視界が白くかすみ、やがて霧の中にひとつの顔があらわれた。
妻の顔だった。
これ以上は不可能なほど見開かれた目には、苦痛と非難の色が交互にうつろった。彼女は血まみれの手を差し伸ばした。救いを求めるように。あるいは、抗議するように……
(な……ぜ、撃った、の……?)
頬に火がついたような感触がまた走った。いつの間に、石畳の上にひざまずいていたのだろう。二葉がおれを固く胸に抱きしめた状態で揺さぶっていた。
「エイジさん、聞こえる? あれは『擬人』なんかじゃない! ただのお人形よ!」
「しかし……」
「もう、お願いだからしっかりしてよ。プラズマの炎の中にいるから、あんな芸当ができるんでしょう。でもしょせん、ただの幻惑よ。絶対に『擬人』とは違う。あのお人形は、決してエイジさんの心の中に入り込むことはできないわ」