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いきなり囁くとは思わなかったのか、二葉の横顔は目を見開いていた。みるみる頬が赤く染まり、音がしそうな瞬きをした。
「ば、ばかね。そんなの決まってるじゃない。ゆうべエイジさんは彼女を置いて出かけ、擦り傷やら打ち身やらを、いっぱい作って帰ってきた」
「それで?」
「アマリリスちゃんは怒った」
複雑な方程式か、禅問答を前にしたように、うーんと腕を組んだ。木魚でも叩きたい気分でしばらく考え、ぽんと膝を打った。
「つまり、置いてけぼりにされたのが気に食わなかった?」
「ピルトダウン人なみの鈍さね」
アマリリスが顔を出し、食事の用意ができたことを告げた。ダイニングに入ると、テーブルの上には当然のように、三人ぶんの朝食が。クロワッサンにバター。ベーコンエッグにサラダ。唐辛子とトマトで味付けした玄三豆のスープ。パンとクロック鳥の卵以外、缶詰であることを忘れるほど、上手に調理されていた。
「豪華だなあ」
ばかみたいな、けれど素直な感想をもらしたものの、依然、少女は表情を変えない。あからさまに怒ってはいないが、明らかに怒っている。
「最近では月に一種の割合で、新型ワームが出現しているそうよ。もちろん、第三種以上の、ね。でも、あくまでこれは政府が公認した数だから、現状はもっとひどいんでしょう」
クロワッサンをちぎってはスープにひたしながら、二葉が言う。まるで隣の猫が仔猫を何匹生んだとか、そういった口調である。おれは苦虫を大量に噛みぶつした。
「大規模な変動が起こる前ぶれ、か……」
「ツァラトゥストラ教の信者でなくても、天使型ワームの出現は、やっぱり気になるわ」
ワームとIBは根本的に異なるが、決して無関係ではない。これまでも多くの地区が、イミテーションボディによって壊滅させられており、最近また、惨劇が起こる頻度が増えていた。いくら政府が情報統制を行っても、そのての話は、おのずと耳に入るものだ。そうして、IBの侵攻が始まる前ぶれとして、ワームが必ず不穏な動きをみせた。
すなわち、大量発生や、極端な巨大化、奇形化、新種の出現などである。
ツァラトゥストラ教の中でも過激な一派は、これこそ救世主到来の前兆と騒ぎたてる。かれらのいう救世主とは、神ではない。肉体を備えた「超人」であり、最終的には人類が超人へ進化することで、この地獄じみた世界から救われると説く。そして人類進化の鍵を握るのが、イミテーションボディであるらしい。
なかば無意識に、おれの視線はアマリリスに向けられた。
少女はパンを切り分けるのにも、フォークとナイフを使っていた。一切れずつ、器用にバターを塗って口へ運ぶ。中学生くらいの女の子が、マナー本を読みかじった姿と何ら変わらない。しかしツァラトゥストラ教徒にとっては、彼女はまさに「超人」の資格を備えていまいか。
「そうね。彼女の存在がジークムント旅団あたりに知られたら、ちょっと厄介よね」
まるでおれの頭の中を読んだように、二葉が言った。ジークムント旅団とは、ツァラトゥストラ教過激派の一つで、東アジアに勢力圏をもつ。宗派の理念のためなら人殺しも厭わない、テロリスト集団である。この地区にも潜入しているという噂があり、刷新会議は躍起なってアジトを探しているようだ。
思い起こせば、少女が眠っていた黄金のカプセルは、ツァラトゥストラ教の礼拝堂とおぼしい場所で発見されたのだ。二葉の言葉は、鉄槌の音のように重く、胸の内に響いた。
「ところでわたし、エイジさんの意見を聞きに来たんだけど」
彼女が来意を告げるとは珍しい。もの問いたげな視線を向けると、手でつまんだレタスを口へ放りこみ、挑発的に指を舐めた。
「見たんでしょう、あれを」
「あれ?」
「赤い靴を履いた女の子」
寒気におそわれた。長い睫毛に縁どられた、決して瞬きしない、どこまでも虚ろな眼差し。ふっくらとした唇が、真後ろを向いたまま、薄く微笑みかけるさまが、ありありと浮かんだ。
木馬の回転につれて人形が視界から隠れると、メリーゴーランドは、いつのまにか静止していた。常夜灯は消え、噴水は死に絶え、檻の中の獣たちは、蒼い燐光ごと見えなくなっていた。あとには、闇を孕んだ常緑樹のざわめきだけが残された……
「人形だったよ。等身大のビスクドールだ」
たしかに、世にもおぞましい光景だった。けれどあれが人形である以上、最もおれが恐れていたものとは違っていた。そのことを確かめられただけでも、夜中の下見は無駄ではなかった。