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妻が占いを趣味としていた影響で、易についても、概要だけなら知っていた。また大昔の「SF」小説の傑作に、易が重大なモチーフとなっている作品があり、おれにとっては、こっちのほうが馴染み深い。
「中国の最も古い占いの書物でしたか。孔子が書いたのでしょう?」
「孔子は本文に注釈をつけただけです。最初に八卦を作ったのは、伏羲だとか。フッキの下半身は蛇だという、神話的人物ですね。八卦は、最初期のコンピューターが打ち出した穿孔テープのような記号ですが、紀元前千年頃より栄えた周王朝の文王が、これに言葉で解説を加えました。子の周公がその仕事を受け継ぎ、完成させたそうです」
「壮大な話ですね」
指先で煙草をもてあそびながら、溜め息をついた。いまだに火をつけずにいるのは、なかば無意識に、部屋の中の違和感を、嗅ぎとろうとするのだろう。たしかにこの部屋には、未知の香りが、目に見えない生き物のように、わだかまっていた。
いきなり易の話など始めた、滝沢理論の態度も不可解だった。科学者の娘だと称した、彼女はその名のとおり、あくまで実証主義的で、壮大な神秘について語るタイプではない。少なくとも、これまで数夜をともに過ごした印象は、そうだった。
「何かご質問はありますか?」
首をかしげると、こめかみを、汗が伝う。にもかかわらず、理論が浮べた薄い笑みは、おれの背筋を寒くさせた。
「いろいろと、迷っていらっしゃるのでしょう? ならばこの機会に、易に問いかけてみてはいかがでしょうか。それとも、占いはハナからお信じにならない?」
おれはまた曖昧に首を振った。妻のカードがあまりにもよく当たるから、むしろ敬遠していた。アリーシャのことは、まだ思い出したくなかった。それなのに、またしても占いである。
「何を尋ねてもよいのですか」
「ええ。同じ質問を繰り返すのでなければ、何でも」
「ならば尋ねます。この部屋に、おれとあなた以外の人物が、潜んでいるのか?」
理論の表情に、動揺の色はまったく見られなかった。薄く笑みを浮べたまま、彼女は軽くうなずくと、三枚の古い銅貨を、両手で包みこむようにして握った。
さらさらと、銅貨の触れ合う音が響く。床に投げられた銅貨の表と裏の組み合わせが、実線か破線かによる簡単な記号に変換され、下から積み上げるように、メモ用紙に書きとめられてゆく。六度、銅貨が投げられたところで、いわゆる「卦」が完成した。うち、下から四番めだけ、すべて表が出た。
「沢天『夬』、四爻変です」
おごそかに理論は言うと、緑色の表紙の、上下二冊本のうち一冊を開いた。これが『易経』であることは、例の小説によって馴染みがあった。タクテンカイとか、コウヘンとが何を意味するのか、定かでないが、この書物に、文王だか周公だかの解説が載っているのだろう。
「まずは卦辞、卦が意味する言葉を読んでみます。簡単に意訳しますと、夬とは、王の裁きにうったえる。真実を叫ぶ。けれど危険なので、自身のテリトリーから始めなさい。争いを起こすのは不利。外へ出てもよい」
おれは眉をひそめた。王とは、だれのことだろう。東京皇帝が生きているという噂もあるが、当局、人類刷新会議を指すと考えるのが、より現状に近いだろうか。しかしこの「卦辞」とやらが、いったいおれの質問の答えになっているのか? そんな煩悶を見届けて、彼女は語を継いだ。
「続きがあります。四度めに投げたコインが、すべて表でしたね。これは変化をあらわしています。よって、下から四番めの爻辞、爻の意味する言葉を読みます。お尻を擦り剥いて座っていられず、かと言って行こうとすればトラブルだらけ。群れにまぎれていれば、後悔が消えるかもしれない。いまはだれも聞く耳をもたない」
次に訪れた沈黙の中で、少しずつ、ひとつのイメージが頭の中で、像を結ぼうとしていた。
逃亡者。何らかの理由で、もといた場所にいられなくなった者。その者が真実を叫んでも、いまはだれも聞く耳をもたない。進退きわまり、自身のテリトリー、仲間のもとへ転がりこんでくる……よって、答えはイエス。滝沢理論は、逃げてきた「仲間」をかくまっているに違いない。
「だいたいわかりました。事実は、単純なのですね。あなたがたサイレント・スプリングは、ツァラトゥストラ教の武装勢力による、何らかの不正行為を暴こうとしている。そこでトラブルが生じ、身の危険を感じて進退きわまり、逃げてきた者がもう一人いたところで、何の不思議もありません」
「それがだれか、エイジさん、あなたはご存知のはず」
すでにおれの耳の中では、二葉の声がこだまを返していた。グム・ダラウドとかいう、ツァラトゥストラ教団の要人殺しにおける、最も重要な容疑者……
軽い拍手の音が響いた。理論ではない。振り向くと、いったいどこに潜んでいたのか、キッチンとの境にもたれて、見知らぬ女がおれたちを見下ろしていた。薄紫のシュミーズ一枚をまとい、まだ濡れて滴のしたたる髪の下から、片目だけが覗いていた。
「はじめまして。組織のほうから、わたしのぶんの料金は、すでに貴社に振り込まれました。もちろん、竹本社長も承認済みですので、よろしくお願いしますわ」
悠久の時を越えて、神話時代からあらわれた女を目の当たりにしたように、おれは眩暈におそわれた。