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くそいまいましい電話を切ると、またアマリリスの視線とぶつかる。心なしか以前より、気持ちが読みやすくなっている。
気持ちが……?
「コーヒーをもう一杯。それから、サンドウィッチをくれないか? 聞いてのとおり、さっそくシゴトだとさ」
食欲はなかったが、とてもキャンセルできる状況ではない。少女は軽く目礼した。木製のしゃもじを握りしめたまま。
「いつもどおり、濃いめのサントスでよろしいですか。サンドウィッチのタイプは?」
「任せるよ」
サントスといっても、半分くらいは異物が混ざった、代用コーヒーだ。が、そもそも味覚なんて、古今伝授のようにあやしげなもの。現在、ブルーマウンテンの名で普及しているシロモノを、果たして百年前の人間がそれと認めるかどうか、おおいに心もとない。
コーヒーとともに出されたサンドウィッチは、まだ熱く、マヨネーズであえた茹で卵とハムとキュウリのピクルスが、はさまれていた。パンの外側に、これも代用品だがバターが塗られ、彼女が表と裏を間違ったのではない証拠に、ふんわりと、とろけるような食感が愉しめた。
「これは旨いな」
なんだかんだで、疲れてもいたし、体が食物による癒しを、欲してもいたのだろう。思わず声に出すと、笑顔にはまだ到らないが、少女の顔が嬉しそうに輝くのがわかった。
隣のドアをノックする前に、そっとノブを回してみた。
珍しいことに、鍵がかかっており、ノックすると、返事の代わりに、油圧でボルトの外れるような音が、手もとで響いた。思ったとおり、ドアの内側に、小型金庫ほどの、ものものしいボルト錠がとりつけられていた。
失笑を禁じ得なかった。ドア自体が貧弱なままでは、フォックス教のお札以上の効果は期待できまい。それとも、下着泥棒でも出たのだろうか。相変わらず、目の前には、太古の羊歯植物のように、無数の下着が吊るされている。
「失礼します」
もはや慣れた手つきで、のれんのように、下着を掻き分けたところで、ふと動きをとめた。不可思議な違和感が、そこにわだかまっていた。思わず、ブラジャーのひとつを手にとって調べた。薄暗くてよく見えないが、たしかに紫色だ。レースやリボンも、いささか過剰気味である。
この違和感の正体は、何なのだろう。強いて例えるならば、小鳥が飛び交う森の梢に、クロック鳥が混じっているのを見たような。ちなみにそのブラジャーは、生乾きだった。かすかに、洗剤のにおいがした。
「そんなところで、迷子になっていらしたのね」
開け放たれたままの、ドアの枠に軽くもたれ、滝沢理論が薄く微笑んでいた。剥き出しの腕。体のラインがすべて透いて見えそうな、薄い生地。おれは蛇を放り出すように、あわててブラジャーを手放した。言い訳の余地は、まったくなかった。
「朝食は、お済みですか?」
「え、ええ」
「朝早くから、お呼びたてして、申し訳ございません。いろいろと不安で眠れなくて。ちょっと、お付き合いいただけますか」
彼女の口調に、怪訝さや軽蔑のトーンは、含まれていなかった。リビングは相変わらず、ケイオスな様相を呈し、おれはいつもどおり、地雷原を行く足取りで、歩かなければならなかった。けれど、ようやく床に空けられた、わずかなスペースにおさまったとたん、またしても眩暈に似た違和感におそわれた。
そうだ、これまでは、玩具箱をぶちまけたような中にも、一種の秩序がみとめられた。なるほどこれはこれでひとつの帰結、ひとつの必然なのだと、納得させられてしまう部分があった。けれど、今はその秩序に、奇怪な乱れが生じていた。密猟者の足跡のように、ひそやかだが、決定的な乱れが。
またあの不安定な紫色が思い起こされた。同時に、洗剤に混じって、かすかに感じられた体臭も。今やおれの「本能」は、はっきりとこう告げていた。
あれは、滝沢理論のブラジャーではない!
「急に暑くなりましたね」
言われて、しどけない恰好の彼女から、急いで目をそらした。なんとなく、理論の醸す雰囲気が、いつもと違って感じられた。日がのぼってから面会するのは、初めてだからか。相変わらず遮光カーテンが、閉めきられており、電灯がともっているが。彼女と自身との間に、薄靄がたちこめているような印象をうけた。
「易というものを、ご存知ですか」
そう言って理論は、中世期の東洋の古銭とおぼしい、三枚のコインを床の上に並べた。