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黒竜は珍しく寝込んでしまった。
「鑓でも降らなきゃいいがな」
隼宅配便のオヤっさんは、皮肉たっぷりにそう言ったが、たまにはゆっくり休め、と、小遣いをわたすことも忘れなかった。四部屋しかない安アパート。うち、三部屋の入居人はおらず、五年来、かれは二階の一室に居ついていた。
大きな常緑樹の梢が、かれの部屋を覆い隠さんばかりに茂っている。かれが在宅していることは、大樹の下のバイクでわかった。ここなら雨にも濡れない、恰好のガレージと重宝していたが、現在、かれの大切なバイクの燃料タンクには、無残な擦り傷が見うけられた。
ただでさえ薄暗い部屋のカーテンは閉めきられ、かれはベッドという名の万年床の中で、頭から布団を被っていた。
(いつもこうなんだ)
手に入れたと思ったとたん、それは自身の手を離れている。たどり着いたと安堵すればたちまち、足もとから崩れ始める。けっきょくすべて、元のモクアミ。モクアミが何を意味するのか知る由もないが、みじめな使いっ走りに過ぎない、現実だけが残る。
ぬか喜び。
いつも、いつも、いつも、いつも、ぬか喜び。あまりに繰り返されるから、もういい加減、慣れたはずなのに、今度の衝撃は大きかった。「女」がナントカ徹甲弾で撃ち抜いたのは、目玉つきの装甲車などではなく、おのれの心臓ではなかったのか。
女は、赤間恵理子と名のった。
夜が明けると、火星の町は、二つの月とともに消え去った。代わりに、埃っぽい、ありふれた場末の風景が、色あせた日の光に照らされていた。
女の姿は、どこにもなかった。
(くそっ!)
黒竜はシーツを握りしめた。いつも間抜けな役どころ。ワルと言われて、いい気になって、女を、いや全てを、手に入れたつもりになっていた。けっきょく後に残ったのは、燃料タンクの大きな擦り傷と、わけのわからない胸の痛みだけ。
比喩ではなく、ほんとうに胸がずきずきする。指で軽く押してみると、あまりの痛さに、呻き声を洩らすほど。喪失感の大きさに、あらためて驚かされた。たった一晩の戯れが、女を、赤間恵理子を、かけがえのない存在に変えていた。
たとえ十年つきあった女と別れたとしても、これほどの痛みを覚えるだろうか。
額を汗が流れた。何年も日干ししていない、ぺちゃんこの布団だ。こんな真冬に、シャツ一枚で潜り込んでいるだけなのに、気がつけば、じっとりと、全身に汗がにじんでいた。
カゼでも引いてしまったか。咽の渇きに耐えられなくなり、布団を這い出す。部屋には、むっとするような熱気が籠もっていた。もしカゼならば、むしろ寒気を覚えるはずだ。
申し訳程度のキッチンスペースにたどり着き、ビール会社のロゴの入ったコップで、何杯も水を飲んだ。水は異様に生ぬるく、腐臭さえ放っていた。さすがに渇きは癒えたが、汗が止まらず、暑くてかなわない。
喘ぎながら窓辺へ向かい、建てつけのよくない窓を、乱暴にこじ開けた。新鮮な空気を求めて、突き出した横っ面が、熱風に殴りつけられた。胸の痛みもしばし忘れて、かれは瞠目した。
(どうなってるんだ、こいつは……)
熱い風に揺れる常緑樹の枝は、すでに勢いよく若葉を芽吹かせていた。軒下に蜂が群れていた。
たしかにこの現代世界には、夏と冬しかない。冬が終われば、一足飛びに夏だ。しかしまだ十二月である。この時期に、夏が訪れた記憶などないし、聞いたこともない。それとも自身、夏になるまで、ずっと眠っていたのか? いや、さすがにそれはない。それならば、目が覚める前に干からびている。
よろめきながら階段を降りた。外に出ると、ジーンズにTシャツ一枚でも暑いくらいだった。燃料タンクの擦り傷を尻目に、通りに出て、あてどなく歩いた。いたるところで草が萌え出ていた。すれ違う人々は、かれ同様に薄着で、だれもが戸惑った顔をしていた。
路上の通風孔が、カラーコーンとバーで、厳重に囲われていた。一つではない。交通を著しく妨げるのも構わず、あらゆる通風孔が囲われており、虎バーから身を乗り出して、中を覗きこむ人も見うけられた。なかば無意識に、かれもまた立ち止まって、通風孔を凝視した。
そこからは、燃え上がらないのが不思議なほど、すさまじい熱風が吹き出し、砂漠じみた陽炎を揺らめかせていた。胸の内で、かれはつぶやいた。
やっぱりここは、火の星だったのか?