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「あなたは、ブディストなのですか」

 名も知らぬ青年に、霞美が尋ねた。

 青年は振り返り、微笑んだ。邪心のかけらもない、ほがらかな笑み。なのに霞美は、戦慄を覚えている自分に驚いた。

(わたしは、この人を怖がっている?)

 K-00指定文化地区。そこにはテラがあり、ゆえにIBの猛攻から守られているのだと、青年は言った。けれども、最初に車椅子についていた少年が着ていたのは、ツァラトゥストラ教の少年合唱団の制服ではなかったか。

「ぼくが興味を惹かれている『ゼン』は、伝統的なブディズムとはだいぶ異なるかもしれません。異端であり、邪道ともいえるでしょう」

「さっき話されたような?」

「はい。人間を超えるための、ひとつの方法論として興味があるのです」

 人間を超える。それはまさに、ツァラトゥストラ教の教義の根本である。かつて多くの科学者や研究者たちが、その教義に憑かれたのだ。逆さAの紋章。幼い頃垣間見た、あの奇怪なカプセルにも、その紋章は刻印されていた。

 カプセルは、父が持ち帰った、ロジックロックつきのトランクの中に納められていた。

「広いんですね。建物の中にいることを、忘れそうです」

 こめかみをつたう汗が意識された。おそらく自身は恐れ、戸惑っているのだが、態度にはあらわれず、かえって落ち着いた声が出てしまう。

 昔からそうなのだ。気が弱く、周囲の世界がひたすら恐ろしく、常におどおどしているのに、ゆったりと構えているように見られてしまう。大柄な身体を思い合わせれば、牛や象などの草食獣に自身を例え、自嘲することがたびたびある。

 鹿や兎と同じように、かれらだって怯えている。ただ、恐怖を表現するための回路の、迂回が長いだけで。

 細路を抜けると、不意に視界が開けた。

 池があり、小亭がある。漆喰が剥げて煉瓦の露出した壁が、用途のわからぬまま立っている。常緑樹が一本、旺盛に葉を茂らせ、その下に、大きなダイニングテーブルが、無造作に置かれている。無地の白いテーブルクロスの上には、ティーカップが並んでいる。

「マッド・ティーパーティー」

 霞美にだけ聞こえるように、二葉がそう囁いた。

「せっかくですから、お茶でもいかがですか。ご覧のとおり、席は用意してありますよ」

 青年はそう言うと、霞美にちょっと手を挙げてみせた。介助は不要、という意味だろう。手を離すと、車椅子は滑らかに前進し、テーブルの短いほうの端についた。テニエルの挿絵で、アリスが座っている位置だ。

 アリス。

 なぜかその名前が思い起こされたとき、霞美はここへ来て最も強烈な戦慄に見舞われた。二葉の言うとおり、この景観そのものが、童話の一場面を、意識的に模倣したものに違いないのだが。

「どうぞおかけください。ぼくが招いたのですから、あなたがたは、お客さまです」

 この恰好で「お客さま」と呼ばれるのも抵抗があったが、二葉は頓着せず、青年が指し示した椅子へ向かった。そこは三月兎がかけ、隣の席ではヤマネが眠りこけていたところだ。手を触れる前に、背もたれの高い椅子は、ひとりでに下がった。

 驚いた顔を向けると、青年は、問題ないとでもいうように、微笑を浮べたまま。腰をおろすとき、椅子が絶妙なタイミングと角度で、微調整されるのがわかった。たったこれだけの装置を作るだけでも、数千万単位の金が飛ぶのではあるまいか。

 ティーカップとケーキ皿には、まだ何も入っていなかった。どれも真っ白な磁器で、磨き上げられた表面には、戸惑い顔が映りそうなほど。

 だれが給仕するのだろうと考え、あの少年が再びあらわれることを恐れた。ゴリラに似たチャペックは、彫像と化したように、すでに身動きひとつしない。

 茂みを掻き分ける音がした。目を遣ると、カートがひとりでに歩いてくるのだった。文字どおり「歩いて」来るのであって、それもチャペックらしいぎこちなさは、まったくなく、絹をおもわせる、濃い紫色のタイツに包まれた脚を、優雅に交差させながら。

 上に載せたティーポットやケーキを、少しも揺らさずに。

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