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耳鳴りがする。ぶうううーーーんん、という耳鳴りが。
太古の巨大な昆虫が、頭の中を飛び回るかのように。事実、そんな夢をみていたのかもしれない。別荘の窓からの眺め。海沿いの熱帯樹。辺りを這い回る、おぞましい古代生物たち。かれらの姿形は、じつのところ、ワームと区別がつかない。
ワーム、なのだろうか。もちろん一度も見たことはないが、あれが、IBというものではないのか。
たとえ写真であれ、ドームに住む一般市民が、現実のIBを目にすることはない。きびしい情報統制が敷かれているのだ。また、流言蜚語した者も厳罰に処される。それでも不明瞭ながら、こんなものだというイメージは浮かぶ。
IBに憑かれる者がいると聞く。一種の啓示。それも神や天使ではなく、殺戮機械が放つ電波による。憑かれた者は、啓示に従い、随喜の涙を流しながら、無差別殺人を行う。街なかで、武装警官に取り囲まれ、蜂の巣にされる人間の何割が「憑かれた者」か、それはわからないが……
ここは、どこなのだろう?
さっきから目を開けている。開けているのは確かなのに、視界が青くぼやけている。ぼやけたまま揺れている。揺れて?
水の中にいるのだと思い当たった。いや水なのか何なのかわからない、青く着色された液体の中に。沈んでいるのか? そもそもどうやって呼吸しているのだろう。仰向けである。まるで草の上で呑気に伸びをするように、四肢を開いている。あるいは、解剖された両棲類のように、無様に。
姿勢を変えようとして、手首と足首に鈍い痛みを感じた。拘束されているのだ。驚愕し、息を呑む。その息を吐き出す。どうやら鼻と口ばかりが、液体に触れていない。ならば、目の前で揺れている管は、呼吸用のチューブなのだろう。ガスマスクみたいなものを、つけられているのだ。
そうして、このチューブをとおして、すべて喋った。吐いた、という言葉のほうが、あるいは妥当だろうか。
事故車の窓のように、粉々の記憶。脳細胞の中で、それらが修復されてゆくにつれて、ないまぜになった恐怖と屈辱が、徐々に蘇ってくる。もはや自身が何も身につけていないことは、疑う余地がない。奇怪な耳鳴りの正体は、体内に残った電流が、逃げ場を求めてさまようのだろう。
自身を浸す、異様に青い液体の意味も、もうわかっている。電流を緩和しつつ、全身に浴びせるための媒体なのだ。またここで汚物をまき散らしても、平気なように。いったい、このような装置がホテルにあるなんて、エグゼプティブ・ハウスキーパーにさえ、知らされていなかった。
思わず、自嘲的な笑みが洩れた。何を考えているのだろう。このホテルは、とくに別館は、わからないことだらけじゃないか。
知りたいと考えた理由は、職業的な誇りによる部分が大きい。もしくは、誇りから生じる屈辱感に。エグゼプティブ・ハウスキーパーである自分を素通りして、亜門とあのメイドとの間で交わされる、意味ありげな目配せに。だから、
(あの男に近づきました)
悲鳴交じりの自身の声が、ずっと遠くから発せられたように、頭の中でこだまを返した。もっと無様なことまで、口走ったように記憶する。両棲類の断末魔みたく、のたうちまわりながら。
愛したのでは、ない。断じてない。愛していたのは、あの男ではないのだから。
ツァラトゥストラ教の教義など、まったく知らない。まして、信じるなんて思いもよらない。けれどもあの目は、猛禽類の眼差しには、恐るべき呪縛力があった。ある意志をもって見つめられるだけで、裸にされたような気がした。何もかも見透かされているような気がした。懸命に否定し続け、奥に秘めた鉄の匣に閉じ籠めたつもりの、疼きまでも。
関係を持つまでに、さほど時間はかからなかった。エグゼクティブ・ハウスキーパーという立場を逆用すれば、秘密は保てると信じていた。
(ボイラーが暑すぎるのです)
たびたび、あの男はそう言うのだ。意味ありげに言うのだ。考えていたとおり、あの男は単に、動物愛護団体か何かの暗殺を恐れて、ここに逗留しているわけではなかった。あの男は、肉体の代償を支払うように、少しずつ、このホテルに関する情報を洩らした。
(ボイラーを調べてみることです)
(ボイラー室を?)
(あれは贋物ですよ)
そのとき初めて、あの男の笑い声を聞いた。微笑さえ、一度も見せなかった男の声は、猛禽の鳴き声そのものだった。たしか、ツァラトゥストラ教の「真の」紋章にも、猛禽が描かれているのではなかったか。
気を失う直前、頭の中で鳴り響いていたのもまた、同じ笑い声だった。