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「お代わりは必要ですか?」

 少女に問われて、初めてカップの中身が空になっていることに気づいた。どうやら、傷つけたわけではないらしいことも、同時に知れた。感情表現の少ない彼女であるが、機嫌のよくないときは、意外にわかるのだ。

 そう、たしかに彼女には、感情がある。

「いや、どちらかというと、煙草を吸いたいな」

 カップを盆に戻すと、少女はきびすを返した。おれは服を着ると、壁にかけられた上着の内ポケットから、よれよれの煙草を取り出した。火をつけたところで、電話が鳴った。

 すぐにドアから顔を出したアマリリスに、片手を上げてみせた。基本的に、電話に出ないように言ってある。大半は会社からであり、その他を含めても、九九パーセントは面倒事だ。わかっていながら、苦労して回線を引くのもばかげているが、面倒事を背負いこまなければ、メシが食えない。

 なに、ワットのやつだったら、せいぜい待たせてやるさ。

「おはよう。朝寝坊男が受話器に辿り着くのが早いか、電波が途切れるのが早いか、心の中で賭けをしていたところ」

 ノイズにまみれた二葉の声は、ちょうど三文小説家が描くAIの声をおもわせた。

「どっちに賭けたんだ?」

「勝ちめのない賭けは、しない主義。調子はどうなのか、訊いてくれないの?」

「調子はどうだい」

「ちょうどこの電話みたいな感じ。本来なら朝寝坊男に対し、八幡商店特性のコードレス電話機を、売り込みたいところだけど。そっちが有線でなければ、こんな減らず口も叩けなかったでしょうね」

 このまえ同様、ホテルの中から、かけているのだろう。中央アジアの民族楽器を掻き鳴らすようなノイズが、悪夢の残滓と混じりあい、彼女が麻薬中毒者の夢にも似た、サイケデリックな世界から電話をかけているような、錯覚にみまわれた。そこでは顔のある花々が歌い、極彩色の蝶たちが笑う。

「寝てるのかな」

「聴いているよ。こっちもいろいろあってね。必ずしも、寝ぼけているわけじゃない。まあ、その様子じゃ、いろいろ面倒なことになっているのは、お互い様なんだろうけどな」

 二葉は溜め息をついたようだが、掻き鳴らされる不協和音にしか聞こえなかった。頭の中で、極彩色の蝶たちが粗いピクセルに分解された。幻覚、とまでは呼べないが、プラズマの亡霊を除いて、これほど鮮明な幻影を見るのは久しぶりだ。

 二葉は言う。

「とりあえず、近況報告しておく。五〇二号室の風変わりな長期滞在客、グム・ダラウドのことは覚えているわね」

「ああ」

「かれは死んだわ。殺害されたの」

 ちょうどノイズが途切れて、その一言だけ、耳もとで直接囁かれたように感じた。背筋に金属的な戦慄を覚えながら、悪夢の続きを見るような、二葉の話をぼんやりと聞いていた。

 頭のよい彼女の報告は、的確で要領を得ている。まるで新聞記事のように、最も重要な事項から、段階的に語ってゆく。けれども、おれの思考が追いつかず、全体像がなかなかつかめない代わりに、ディテールばかりが異様な鮮明さでイメージされたりした。

 おれは間抜けなチャペックのように、何度も尋ね返さねばならなかった。

「驢馬だって?」

「そう。シェイクスピアのお芝居に出てくる、間抜けな職人みたいにさ。そのくせ自分はロオマ皇帝になるんだって、真っ赤なマントをひらひらさせて、大威張りなわけよ。ただ、そのことが、後で問題になってくるのね。果たしてあれは、ダラウド本人だったのか、という」

「つまり、もし驢馬頭がダラウドではなく、『犯人』もしくはその共犯者であれば、密室ではなくなる……」

「一応ちゃんと聞いていたのね。このホテルはドアまで古風にできていて、ただバタンと閉めただけでは、施錠されない仕組みなの。メイド長なら合鍵を持っているし、その夜に限って言えば、キャンディー……例の先輩メイドね、たしかに彼女も持っていたわ。そして彼女には」

「完璧なアリバイがある」

 おれが言葉を受け取ると、またノイズの塊が耳もとで弾けた。金髪でグラマーだという、見たことのないメイドの姿が、いやに生々しく脳裏に浮かんだ。そのくせ顔ばかりが、故意に手を加えたように、真っ黒く塗り潰されているのだった。

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