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木々と花の間を、曲がりくねりながら小道が続いていた。車椅子を押す霞美の後ろに従いながら、二葉は意識が朦朧としてくるのを感じた。
湿気と暑さ。蝶と花々による、色彩の狂宴……ふと気がついて、辺りを見わたすと、「邪悪なほうの」少年の姿はどこにもなかった。
まるで心得ているかのように、鳥辺野霞美は車椅子を、ゆっくりと押してゆく。その姿が、すでに絵になっている。ぼんやりとした頭の中で、二葉は彼女が、かれにかしずくために来たのではないかと、考えている自分に気づいた。
車椅子の青年の名前を、二葉はまだ知らない。
ゴリラに似たチャペックは、一定の距離をおいて、後ろからついてくるらしい。シダの葉に隠れているが、モーター音でそれと察せられた。少年がその辺りにいるかどうか、わからない。なぜ少年の存在が、執拗なまでに気にかかるのか、二葉は訝った。
でもやっぱり、おかしい。あいつは何だか絶対に、変だ。
青年と顔の作りが瓜二つであったことも、やはり奇妙である。クローンという言葉がまっ先に浮かんだし、その可能性は決して低くない。作りかたそのものは、極めて簡単。自身の細胞を取り出し、受精卵の状態まで戻して、「代理母」の子宮に移植すればよい。青年と少年とのタイムラグも、それで説明がつく。が、しかし、
それだけではない、と、本能が彼女に訴えている。本能とは、生存しようとする意志であり、原始の暗い森に覆われた恐怖の源だ。絶滅した巨獣、化け物じみた猛獣の影に怯える原始人の遺伝子の記憶が、しきりに訴えかけてくる。意識の表面にメッセージを送ってくる。
かれは、尋常でない。
「……人間を超えた存在といえます」
「えっ」
驚きの目を前方に向けた。彼女が歩きながら、もの思いに耽っている間、青年と霞美は、しめやかに会話していたらしい。車椅子の上から、かれはゆっくりと振り向いた。邪心のカケラも感じさせない、穏やかな笑顔。いかにも躾のゆきとどいた、上品な話しかた。
「ゼンの話をしていたのですよ」
「禅? あのヨギーたちがやっているような?」
「そうですね。禅とヨーガはとても近いもの。ひとつの真理に到るための、別々の道と言えるかもしれません。ですが膨大な時間を隔てることで、二つの道の形状は、ずいぶん異なるものとなりました。ご存知のとおり、禅はもともと、中世において大陸から渡来し、この国に根をおろしたわけですが」
ついていけないよ。
という言葉を、二葉は苦虫と一緒に噛みつぶした。いったい、自身がちょっとぼんやりしている間に、二人は蒼古とした中世の、苔むした「テラ」にまで旅をしていたのか。何でまた、この状況、こんな場所で「ゼン」について、しめやかに語り合うに到ったのか。
霞美を凝視したが、車椅子のグリップを、まっすぐ支えたまま、髪に隠れてその表情は読み取れない。グム・ダラウドを手なずけてしまう手腕にも驚嘆したが、いきなりこの謎の、それもホテル最上級の賓客とおぼしい青年と、ゼン問答を始めるに及んで、驚きは宇宙的に拡散した。しめやかに、青年は語を継いだ。
「K-00指定文化地区へ、行かれたことがおありですか」
行ったことはない。と二葉は答えた。かつて「カマクラ」と呼ばれていた辺りだ。途中のドームを経由しても、かなり広範な汚染地帯を横ぎらなければならず、気軽に物見遊山できる距離ではない。
それにあの辺りは海が近いため、見たこともない新種のIBが、次々と海岸に這い上がり、陸上に適応すべく急速な「進化」を遂げ続ける。IBどもは、ドームの間近をうろつき回り、五重の壁を食い破ろうとしては、軍用チャペックとの小競り合いが絶えないとか。
「処理班もとっくに撤収しており、遠隔操作のチャペックが護衛しているだけ。いつ『陥ちて』も不思議じゃないと、兄たちから聞きました。一般の住人はもちろん、役人でさえ、もはやまともに住んでいるかどうか、わからないという話でしょう」
青年は少し目を見張ったようだ。取るに足りない小娘の、意外な情報量に驚いたのか。
「よくご存知ですね。仰るとおり、あそこからは当局の人間も逃げ出しております。それでもドームが陥ちないのは、なぜだと思いますか」
わかりません。と彼女は即答する。そんなこと、わたしに訊かれてもこまる。
すると青年は、スマッシュを決めたテニスプレイヤーのような、爽快な笑顔でこう言うのだ。
「そこにテラがあるからですよ」