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背中を伝う汗を、二葉は意識した。
動揺が理由の全てではない。箱の中の温度が上昇しているのは、確実である。最初、チャペックがオーバーヒートしているのかと考え、ぎょっと目を見張ったが、ゴリラは不動の姿勢のまま。煙も吹いていなければ、ショートしているわけでもない。
ほとんど無意識に額の汗をぬぐった。そのとき、ぽーん、という古風な音とともに、ゴンドラが止まった。扉が開く前に、ゴリラの縦に並んだ二つの目が、シグナルのように瞬いた。認証しているのだ。扉が開くと、重く湿った熱気が、樹木のにおいとともに侵入してきた。
これほど旺盛な樹木のにおいを、二葉は嗅いだ経験がない。周囲は人工物だらけで、自然は無残に変質していたから。ワームが大発生した区画を隔離し、化学物質を散布した跡のような。と、第一に考えたほど。
二人が先に出なければ、ゴリラの巨体は行く手をさえぎられたままだ。異質なにおいに幻惑された二葉には、扉の向こうの景色が、湿気のせいか、薄緑にかすんで見えた。躊躇する彼女の手を、霞美が軽く握った。ゴンドラの外には、おびただしい熱帯樹が、生い茂っていた。
建物の中にいることを、瞬時、二葉は忘れそうになった。映像や写真以外で、これほどおびただしい樹木を、見たことはない。かと言って、ホログラムでないことは、においが証明していた。はるかな頭上を覆う、緑の梢の下を、痙攣的に翅を震わせながら、無数の蝶が舞っていた。
暑い。汗がじっとりと、全身の肌に纏わりつくようだ。
この巨大な温室は、古風なガラスで覆われているらしく、その上から、白い、強力な人工光が降り注ぐのだろう。足の下は土で覆われ、樹木はそこから直接生えている。幹のかたわらでは、これほどの蝶たちを飽食させて、余りあるほど、様々な奇花が咲き乱れている。どこからか、水の音が聴こえていた。
振り返ると、再生LEDを交互に点滅させながら、ゴリラが出てきたところ。ギリシャ風の白大理石を模した柱が、梢を貫いており、ゴンドラはその中に埋め込まれているのだ。チャペックが降りても、扉は開いたままなので、二葉は少なからず安堵した。もう一度、注意深く辺りを眺めたけれど、彼女たちのほかに、人影はない。
無秩序に見えて、一定の規則性がある。生い茂るにまかせてあるようで、たしかに手が入っている。巨大な緑の壁の周りを、「庭園」は回廊状に巡るようだ。この構造の意味するところが、二葉にはよくわかる気がした。
「どう思う?」
「余剰の熱を利用した温室ですね。あの蔦に覆われた壁の向こうに、熱源があるのではないでしょうか。もっとも、統御されていなければ、ドームごと百回焼き尽くしても、まだ余りありそうですが」
二葉は驚きの目を向けた。自分の考えていたとおりの答えだったが、それよりも、鳥辺野霞美の声にかすかに混じっていた、怒りのトーンを意外に感じた。けれど、すでに表情はいつもの穏やかさを取り戻しており、二葉の視線に、どこか淋しげな笑顔で応えた。
「そんな『力』があるのなら、いっそ世界じゅうをオアシスに変えてしまえばよいのに、ですね」
いったいこの娘は、何を知っているのだろう?
質問を口にしかけたとき、背後でモーターの音が鳴った。ゴリラはゆっくりと二人を追い抜いて、停まった。一八〇度、首を後ろに回転させると、赤い再生LEDを交互に点滅させた。着いてこい。そう言っているようにしか、見えなかった。
緑の壁を左手に見ながら、回廊を行く。時おり、蝶がゴリラの肩や頭にとまっては、また舞い上がる。間もなく、通路がぐっとせばまり、架空の熱帯を意識した岩があらわれる。おそらく本物の岩石ではないのだろうが、苔むし、蘭が寄生し、水が流れていると、またしてもここが空中庭園であることを、忘れそうになる。
人工の小川を覗くと、小魚の群れが、さっと横ぎった。ホテルの水槽の魚たちは、ここで養殖されているのかもしれない。
せまい通路は、なかなか尽きない。トンネルのように、熱帯樹の枝が左右から覆い被さり、長身のゴリラはすでに、肩から上が見えない。歩くにつれて汗が吹き出し、逃げ場のない熱と湿気が、冬もののメイド服の内側に籠もる。かといってワンピースなので、脱いでしまうわけにもゆかないが。
キャンディーのように?
こういった場合、茂みの向こうで待ちうけているのは、やはり生田累なのだろうか。この歳でアリスを気取るつもりはないが、常にキャンディーは、油断ならない白兎のように出没した。あるいは彼女のボスである、亜門真のほうか。少なくとも、五十嵐冬美ではないだろう。
ひとつだけ確かなのは、何者かがゴリラを使って、二葉たちをここへ招いたということだ。あのカチカチのメイド長に、できる芸当ではない。
熱帯樹のトンネルが不意にとぎれ、だだっ広い空間に出た。