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ヒトのようだ。最初に二葉は、そう考えた。人、ではなく、ヒトのような何か。
ずんぐりむっくりした体型。たしかに頭部があり、手足がある。けれど、極端な猫背で、異様に長い手の先が床まで届くよう。ヒトよりむしろ、ゴリラに近い。が、ならば頭部で赤く輝いている眼が二つ、「縦に」並んでいるのは、どういうわけか。だいいち、ゴリラの遺伝子が解凍されたニュースなど、聞いた覚えがない。
その何かは、動きを止めたまま、しばらく二人を凝視する様子。そして再び、ぎちぎちと音をたてると、体を揺らした。赤い眼が、規則正しく交互に瞬いた。
「チャペックですね」
霞美がつぶやいた。
なるほど、ホテルという場所には、通常、多くのチャペックが常備されている。ほとんどが荷運び用だが、ご愛嬌でバーテンダーを勤めさせたりもする。社員食堂のチャペックなども、もとは接客についていた、お下がり品なのかもしれない。ただ、ひとつだけ言えるのは、ホテルのチャペックが、決して独り歩きなどしないということだ。
いや、街の中であれどこであれ、チャペックの独り歩きはご法度だ。一体につき一人以上、必ず同伴者をつけるか、あるいは囲いこまれた工場や建築現場でなら、面倒な許可をとった上で、ようやく自動運転が許される。社員食堂のあれは無許可だろうが、モグリらしく、一歩もカウンターから出たりはしない。
故障か暴走か。いずれにしても、めったに起こることではない。どんな粗悪品だって、勝手に歩き出す前に、機能が停止するようにできている。仕掛けとしては、むしろそっちが簡単なのだから。
「まるで、わたしたちが近づくのを、待っているみたいです」
「冗談言わないで……」
相手は狂っているかもしれず、そうだとしたら、これほど物騒なものはない。好んで近づく気になど、とてもなれない。非力な家事用のチャペックだって、もし本気で暴れ出したら、ドアくらいへし折れる。増してあの「ゴリラ」はいかにも強靭そうで、しかも八幡商店のガレージでさえ、一度もお目にかかったことのないシロモノ。
ゴリラの頭部で、再生LEDがまた、促すように点滅した。霞美の言うとおり、わざと立ち止まっているとしか思えない。追って来るだろうか。たいていのチャペックには、車輪が装備されているので、こんな真っ直ぐな廊下では、たちまち追いつかれてしまう。背中を向けるのは、かえって危険なのだ。
固唾を呑んで、二葉は目を凝らした。
プラズマの亡霊でないかという疑いが、抜けきれなかったのだ。けれど、廊下の奥の物体は少しも燐光を放っていないし、解像度が変化したりもしない。驢馬頭のロオマ皇帝が待ち受けているよりは、ずっとマシなのかもしれない。
(身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ)
呪文のようにつぶやいて、二葉は歩を進めた。肩を並べたまま、霞美も彼女に倣う。ゴリラは身じろぎせず、ただ微妙に頭部の角度を変えながら、確実に彼女たちを「眼」で追っている。
間近で二人は足を止めた。レンズの焦点を絞るような、ジーッという音をたてて、ゴリラは少し首をかしげた。長い腕は多目的マニピュレーターとおぼしく、今は指先から車輪があらわれて、前傾姿勢のバランスをとっていた。しばらく睨みあった、もしくは見つめ合ったあと、チャペックは器用に体の向きを変えた。
ゴリラの目の前では、エレベーターのドアが開いたまま。
「乗れということ?」
顔を見合わせたあと、二人はゴリラに続いて、ゴンドラに乗りこんだ。重量オーバーのブザーが鳴らなかったのが、不思議なほど。脇の壁に、背をぴったりとくっつけたまま、極力チャペックには触れないように気をつけた。もしもかれに悪意があれば、この場で彼女たちを押しつぶすくらい、容易なのだけど。
上昇が始まり、眩暈に似た感覚が、二葉をおそう。一種の幻覚か、骨組みが剥き出しの、工事用エレベーターに乗っているような光景が重なる。とてつもなく深い、井戸のような場所。黒々とうずくまる、巨大な球根状の物体……霞美の腕が、意味ありげに触れた。
(えっ?)
パネルの数字の点滅が、三階から四階への通過を告げていた。さらに四階から五階へ向かったときは、さすがにダラウドのことが思い合わされて、いい気持ちはしなかった。数字はそこで終わっている。にもかかわらず、「5」の点滅はなかなか終わらない。
しかもゴンドラは、止まらずに昇り続けている。