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滝沢理論と肩を並べて部屋を出た頃には、すでに十時を回っていた。
短い冬が、もう終わりを告げようというのか、外気には生温かさが感じられた。理論はやはり女教師のような、地味な服を着ていた。おれの目の前でストッキングを身につけ、こちらに尻を突き出す恰好で、濃い、灰色のキュロットスカートを穿いたのだ。
「夜の散歩ですか。もう少し周りが賑やかだったら、いいものですがね」
こんな郊外では、十時を回った夜は、あまりに暗い。街路には人っ子一人出ておらず、そぞろ歩いているのは、ワームか、刷新の中型無人偵察機が、「プラズマの亡霊」くらいなものだろう。あるいは、サミダレムシに寄生された犬か……
「レイチェルという女を知りませんか」
「本名ですか?」
「さあ。あなたの部屋の、前の住人がそう名のっていました。ハタチ前後の娘で、ある日突然いなくなりました。どうやらツァラトゥストラ教の過激派に、追われていたフシがあります」
「共通点があるのですね。わたしと、あまりにも大きな」
「無関係とは思えないのです。レイチェルの身代わりとして、あなたがやって来たような気がするほど」
踊り場で、不意に理論は足を止めた。そこは偶然にも、投げだされた花束のように、レイチェルがおれの胸に飛びこんできた場所だった。理論は指先で髪を掻き上げ、耳をあらわした。柔らかな巻貝を、ほんのりと染めた赤みが、薄闇の中で鮮やかに映えた。
「たしかにおりますわ。わたしたちの組織に、一人。レイチェルというコードネームの女が」
呆然と立ち尽くすおれに、理論は悪戯っぽい眼差しを注いでいた。
「あなたとは……」
おれの質問を封じるように、理論は首を振った。いわゆる、守秘義務というやつか。おれは苦笑いして、軽く彼女の肩を押した。その感触が、なぜかパセティックという言葉を想起させた。
建物を出て、常緑樹の植え込みを抜けた。常夜灯に照らされた葉が、蝋のように蒼ざめていた。駐車場に黒々と横たわる、スクラップたちの陰に、彼女のバイクがとめられていた。四〇〇CCとおぼしく、真紅のカウルに覆われていた。さすがにおれは、当惑した。
「後ろに乗れと?」
考えてみれば、その逆はごまんとあっても、男を後ろに乗せた女のライダーには、まずお目にかかれない。滑稽に映るか、卑猥になるか、いずれにせよ、かなり抵抗がある。免許はないが運転はできるので、代わろうと申し出たが、理論は太腿もあらわにシートにまたがったまま、譲ろうとしない。
「だれも見ておりませんわ」
「そういう問題でしょうか」
タンデムシートは非情にせまく、革の取っ手を握ると、今にも後ろにずり落ちそうで心もとない。かなり整備が行き届いているのか、軽いキックでエンジンがかかり、小気味よい震動を伝えてきた。今どき珍しい、純正のレシプロエンジンと気づいて、おれは目を見張った。
泥炭や混合油では、とても走れないのだから、燃料の純度も要求される。バイク便の黒竜に見せたら、涎を垂らして悶絶すること請け合いである。
「すごいですね。これっぽっちのアイドリングで、もう走れるんじゃないですか。こんなものが支給されるんだったら、おれも動物愛護団体に入りたいくらいだ」
理論は振り向かず、ちょっと肩をすくめた。それを合図に、バイクは走り出し、スクラップを避けながら駐車場を抜け、公道にのると、快調にエンジン音を響かせた。黒竜が大事に乗っている、無骨な単気筒とは対照的な、いかにも洗練されたメゾソプラノだ。
いくつかカーブを曲がり、彼女は東へ向かう地区道へ出た。市街地とはまったく逆方向である。行き交う車が、一台もないにもかかわらず、道路沿いにはまだ、飲食店が僅かに営業していた。まばらな灯火は、かえって夜の情景に、淋しさを添えるようだった。
理論の髪が目の前で踊り、かすかな芳香を漂わせた。走り出すと、どうしても体が密着してしまい、おれはたびたび、彼女の腰をつかまなければならなかった。頼りなげな細さと、しなやかな安定感の間を、行き来する感触は、ある種の渇望を呼び覚ました。
おれは彼女の乳房へ手を伸ばしたい衝動に、耐えなければならなかった。