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火星は夜だった。二つの月がのぼった。
ドームの外では、風が吹き荒れていた。赤い砂が巻き上げられ、腐蝕した壁を叩いた。無人探査機の亡霊たちが、センサーを哀しげに明滅させながら、酸化鉄の荒野を横ぎっていった。かれらは、決して戻ることのない母船を、今夜も探し求めてさまようのだろう。
火星の人口は減る一方で、大半の居住区が廃墟と化した。忘れられた人々。地球に見放された移民たちもまた、来るあてのない、青い星からの船を待ち暮らしていた。
本当は、もう二度と船が来ないことを、知らない者はいなかった。幾たびもの戦争が、青い星の上を蹂躙し、無人の、恐ろしい殺戮機械がそぞろ歩き、とても火星まで飛べる船など、建造できる状況にはない。そういった事実は知る由もなかったが、それでも、船は二度と来ないことを予感していた。
予感しながら、待っていた。
夢の中で、黒竜は、忘れられた移民の一人だった。かれらの絶望と、絶望ゆえに醸し出される不可思議な希望とが、かれにはよく理解できた。悲哀の底で発酵する、得体の知れない、けれど甘やかな感情。それは女の肌のように、心の内壁に絡みついてきた。
女は、膚の生き物だった。膚が呼吸し、膚が蠢き、喘ぎ、そして沈黙した。時には毛皮にくるまれたように温かく、時には爬虫類のように冷たかった。火傷が危ぶまれるほど、燃え上がった次の瞬間には、氷のように冷めた。ずっと抱きしめていなければ、どんどん冷たくなるような気がするほどに。
夢に呑まれることに抗いながら、うっとりするような倦怠が四肢に絡みつき、眠気のプールに浸されていた。建物の外には、火星の荒野が広がっていた。横たわるかれの胸の上を、女の舌が、悪戯っぽく這っていた。
「きみは、だれなんだろう?」
「とっくに名のったでしょう」
「どこから来たんだい」
「不吉な赤い星から、とでも答えれば満足?」
「ははは、おかしいな。だってここが、火星じゃないか」
イカれてる。
自分も、この女も、何もかもがまともじゃない。そう考えながら、黒竜はまたおかしくて、笑いだしたくなった。依然として、女の舌が不思議な生き物のように、体の上を這っているせいもある。けれど、すべて火星のできごとと思えば、まともでないのが、当たり前なのだから。
かれの体はどっぷりと、眠気の中に浸っていた。やはり疲れていたのだろう。日々の仕事で蓄積された疲れに加えて、今日は……いや、もう昨日のことだろうか。ずいぶん派手に駆けずり回った。そのうえ、女との慣れない遊戯に耽ったのだから、十二ラウンド戦い抜いたボクサーのように、マットに仰向きにぶっ倒れた恰好。
勝ち負けの判定も、もう耳に届かないほどに。
性の遊戯に不慣れなことが、女に悟られたのではないかという、気がかりはあった。けれど、かれが標榜する「硬派な」男とは、そのへんのニヤついた若いやつらのように、嫌味なほど巧みであってもいけなかった。そうして不器用であることを、この女は喜んでくれたのだと、わずかに信じていた。
あるいは、こうして横たわる自身の体が、貧相に映りはしないかという危惧もある。長身であり、レーシングスーツを着た姿こそ厳しいが、裸体になったときの筋肉の乏しさは、隠しようがない。毎日の筋トレを決意しては、忙しさや疲れにかまけて、三日坊主で終わることを繰り返していた。
こんなコンプレックスだらけの体を、女は丹念に舐めてくれていた。コンプレックスだらけの自身を、隅々まで、いつくしむように。
「夜が明けたら、どうするんだ」
「夜は明けないわ。少なくとも、わたしの周りでは」
「火星にだって、夜と昼があるだろう。二つの月が沈めば、また日が昇る」
「あなたの楽観的なところ、嫌いじゃないわ。でも、マイナス四十度の世界ではね、夜が明けても、太陽は一つの星に過ぎないのよ」
ほう、と、女の息が下腹部にかけられ、器官がたちまち呑みこまれた。あまりの快感に、黒竜は全身が痙攣的に震えるのを感じた。同時に、女は自身の手の届かない、圧倒的に遠い世界から来て、またそこへ去って行くのではないかという、限りなく悲哀に近い感情に苛まれた。
そこは火星なのだろうか。