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「私たちの処遇は、どうなるのでしょう」
肉を切りながらつぶやいた、霞美の口調には、意外な真剣さが含まれていた。繊維がゴムのように抵抗する、合成肉と違って、ナイフが食い入ったときには、もう切れている。その切り口の赤さを、二葉は、驚嘆まじりに見つめた。
この娘が金を欲しているのは、事実だったのか。
「言い方はよくないけどさ。ダラウド氏が亡くなったのは、わたしたちのせいじゃないもの。責任をとらされては、かなわないわ。それに……」
「七階のお客ですか」
「そう。わたしたちはもともと、そのお客につけるために、雇われたわけでしょう」
その客はある意味、グム・ダラウドよりも難物であるようだ。しかもどんな客なのか、奇怪な噂が渦を巻いているばかりで、確かな情報がまったく入ってこない。霞美がいなければ、クビになる前に、こっちから願い下げたいくらいだ。
ほぼ無意識にパンをちぎって、スープに浸した。いくつも浮いている薄緑色の球体は、メキャベツだろうか。本の中に出てくるばかりで、巷ではめったにお目にかかれない、童話的な食べ物。フォークで刺して口へ運ぶと、やはりどこか非現実的な味がした。まともに買えば、今の一個で千サーはとられるだろう。
「カイセンキというものがありますよね」
霞美のつぶやきに、小人の世界から引き戻された。漢字変換できないまま、カイセンキという響きだけが、頭の中をしばらくさまよった。
「あの、開栓器?」
大きなハンドルを回すゼスチュアに、霞美はうなずいた。ありふれたもの。形は誰でも知っていながら、案外「素人」には名称を言えないものだ。基本的に、当局か下請け会社以外、これを所持するのは違法で、無届が発見されると、相当な罰金をとられる。むろん、彼女の兄たちも所持しており、むろん無届である。
「それがどうしたの?」
「いえ。ちょっと試しに、訊いてみただけです」
わからない。彼女は真顔で、少し蒼ざめてさえいる。とても冗談を言っているようには見えないのだ。尋ね返すきっかけを失ったまま、沈黙の中で、ボイラーの音だけが、またやけに耳についた。
黙りがちな食事を終えて、廊下に出た頃には、さらに闇が密度を増していた。雨は降っていないようだが、ノイズ混じりの画面のように、空気の粒子が粗く感じられた。
「なんだか、いやな感じね」
もし幽霊を信じていたら、これを「霊感」ととったろう。凍った指で背筋を撫でられたような悪寒に、不意にみまわれた。古めかしい壁紙から伸びる、蒼ざめた常夜灯。霧にかすむような廊下の先で、エレベーターの到着音が、ゾッとするほど、淋しげな音をたてた。
思わず顔を見合わせると、霞美もまた、目を見開いていた。ボイラーの音をはじめとする様々なノイズの中で、骨のきしむような音を聞いた気がした。エレベーターは、この階で行き止まり。何者かが、上階から乗ってきたのだ。そのこと自体は、べつに珍しくもないのだろう、けれど。
エレベーターを降りたのが、グム・ダラウドのように思えて仕方がなかった。
驢馬の頭。見開かれた目は充血し、口からも血がしたたっていた。ロオマ皇帝の、緋色のマントはぼろぼろで、背をまるめ、亡者特有の引きずるような足どりで、ゴンドラから這い出してくる。そんな、ほとんど幻覚と区別がつかない、鮮明なイメージを、強いて二葉は追い払った。
メイド部屋に帰るには、あの前を通らなければならない。何者にせよ、相手が遠ざかるまで、この場を動かずにやり過ごすのが賢明だろう。もっとも、そいつの行く先が、メイド部屋でなければの話だが。
いつしか彼女は、霞美と手を取り合っていた。女の子どうし手をつなぐなんて、何年ぶりだろう。少女の頃だって、めったにだれかと手をつなぐような娘ではなかった。
ぎちぎちと、骨のきしむような音がまた聞こえた。あるいはその音は、おぞましいワームの甲殻が擦れあう響きにも似ていた。続いて硬い足音が聞こえ、さらにもう一歩と、意に反して、こちらへ近づいてくる様子。
こんな足音をたてる時点で、メイドやボーイでないことは明らか。あるいは人間ですらないのかもしれず、骸骨が一人でに歩いてくるのでなければ、まだ大型ワームと考えるほうが、現実的かもしれない。二足歩行の大型ワームが、エレベーターから下りてくる狂気じみた姿など、想像したくもなかったが。
やがて前方に、そいつの影がぼんやりと浮かび出た。