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相変わらずその部屋は、ノルウェー辺りの森のように散らかっていた。
「さすがに眠ってしまう可能性があります。もし危険がせまったら、おもいきり、ひっ叩いても構いません」
おれと滝沢理論との間には、チェス盤が置かれていた。ちょっとしたインパクトで、ピカピカに磨き上げられ、駒は象牙ででもできているのか、ずっしりと重かった。
みょうに赤い紅茶が、かたわらで湯気をたてていた。理論はラズベリーだと言うが、昼間さんざん見せられた、ワームの体液をおもわせて、口をつけるまでに勇気が要った。おれは砂糖を入れない主義だ。それでもどこか甘酸っぱい味が、体の芯にわだかまる疲れを、幾分か溶かす気がした。
要するに、アンニュイな味がした。理論は「僧正」を指の間で弄びながら、夜型人間特有の、ささやくような声で尋ねた。
「昼間も、お仕事だったのですね」
「しがない害虫屋ですよ。こっちが本業みたいなものでして」
硬質な音とともに、駒が置かれた。市松模様と相まって、古めかしい宮殿に靴音が響いたようだった。やはり夜型らしい、猫をおもわせる目つきで、彼女はおれを盗み見た。
「頼もしく存じますわ。ワームは手っ取り早くて安上がりな、暗殺の手段ですもの」
「いわゆる、ワーム爆弾ですか」
「悲惨ですよね、あれにやられた遺体は。目も当てられない」
「まるで見たことがあるように、仰るのですね」
「仲間が何人も、それで死にました」
急に部屋の温度が低くなったように思えて、おれは襟を掻き合わせた。が、実際には、しゅうしゅうとボイラーが音をたてるほど、暖房が効いており、理論は肩を剥き出しにした、しどけない恰好。盤面へ目を逸らして、おれは眉をひそめた。
「いったい何が起こっているんでしょう。サイレント・スプリングという団体は、過激なゲリラ集団にでもなったのですか」
「気になりますか?」
「一応は。ワット、いえ、竹本は料金さえ頂けば、あとは穿鑿しない主義ですから。わけのわからない仕事を、どんどん押しつけてきますけど。現場で体を張る身になってみれば、なるべく情報は欲しいですね。うっかり命を落とすにせよ、腑に落ちない気分のまま、死にたくはありませんから」
「そうですよね」
一向に進まない勝負に見きりをつけたのか、彼女は片膝を立て、ペディキュアを塗りはじめた。マニキュアならわかるが、ペディキュアを塗る心情は、男にとって謎のひとつである。よほどラフな恰好でない限り、まず見えない部分なのに、いったい誰の目を意識して、色を塗るのか。
「落ち着くんですよ。心を落ち着かせるためだけの秘密。そういうものが、あってもいいと思いません?」
心中の疑問を察したように、すかさず理論は言うのだ。黒い下着から、あわてておれは目を逸らした。くすくすと肩を揺らしたあと、理論は語を継いだ。
「旧政権時代に行われた重大な犯罪の真相を、わたしたちは追っていました」
「犯罪、ですか」
「いわばわたしも、間接的な被害者の一人なのですが、事件の全貌はつかめておりません。ただ、数十名の科学者が行方不明になり、少なくともその十倍の一般人が、やはり消えているのです」
ホテルの従業員が「消える」と言った、二葉の報告が唐突に思い合わされた。同時におれは、耳を覆いたい気分に襲われた。聞きたくない。これ以上話を聞けば、おれは正気でいられなくなるかもしれない……さらに、理論は続けた。
「消えた科学者の一人が、私の肉親でした。間接的な被害者と言ったのは、そのためです。非人道的な行為が行われ、その行為は、政権が変わった今でも、闇の中で引き継がれているといいます。抽象的すぎますか?」
「いや、抽象的にしか、表現できないこともあるでしょう」
背中が冷たい汗で湿っているのを意識した。少し気を緩めれば、堤防が決壊するように、これまでの経験の記憶が、濁流となって押し寄せ、すべてを呑み込んでしまいそうだった。確実におれは、同じ階段のステップを上ってきたのではないか。人食い私道から「幽霊船」へと。そして、
この女はおれを、どこへ向かわせるつもりなのか。