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「だれとも会わなかったよ。イーズラック人の親爺以外はね」
ブラインドに一箇所、大きめの隙間ができていることに、黒竜は気づいた。何事もなかったように、彼女はベッドに腰かけているが、隙間から覗いていたのは明らか。それで気休めに、言ってみたのである。
「まるで火星の町みたいだ。ジギーが歌ってるような」
「あんた、ジギーを聴くの?」
意外なほど、弾んだ声。これまで見せなかった輝きが、赤間恵理子の瞳に宿るのがわかった。
ジギー・バンデル・ルーデンをかれに勧めたのは、もちろんエイジだ。最初は古くさくてつまらなく感じたが、それで放り出してしまうのは、珍しく目をきらきらさせながら、磁気テープをくれた男にも、申し訳ない気がして、我慢して何度か聴いた。五回めあたりから、すっかり虜になっている自分に気づいた。
人間技とは思えない、ギターの超絶テクを駆使した、アップテンポの曲もよいが、黒竜は切々と歌い上げる、バラードのほうが好きだった。演奏とはうって変わって、いかにも不器用なしゃがれ声が、ハートにびしびし響くのだ。それは苦くてせつない、けれども一抹の希望を失わない、男の歌だった。
男にしか歌えない歌だと思った。
「好きだよ。とくに、『火星の唄』は最高だ」
極力、さりげなく言ったつもり。恵理子に示すように、紙袋の中身を小テーブルの上に並べながら、けれどかれの胸の内は、害虫屋への感謝の念でいっぱいだった。わざと最後に煙草を取り出したところで、恵理子はウインクをくれた。
「わたしも、あれが一番すごいと思う。ただちょっと完成度が高すぎてさ、聴いてて怖くなる時があるんだ。神がかり、とはあんなものを指して言うんだね。あんなものを作ってしまった人間が、無事でいられるわけがない」
急にくだけた口調でそう言って、恵理子は煙草を二本くわえた。内心目を見張る黒竜の前で、酒場のマッチを摺って、悪戯っぽい仕草で、火のついた一本を差し出した。受け取る手が震えないよう、やっとのことで制御した。吸い口には、口紅の跡が残っていた。血をなすったように、赤い。
「無事じゃいられない?」
「だってそうじゃない。あのアルバムを出したあと、ジギーは二年間、完全に活動を停止してるでしょう。死亡説まで流れたくらい。実際、麻薬に溺れ、酒に溺れ、自殺未遂を繰り返している。そうしてようやく、スタジオに舞い戻った時には、乞食同然のぼろぼろの姿だった。ただ目ばかりが、爛々と輝いていたとか」
強い煙草だったが、噎せそうになるのを、どうにか堪えた。椅子を引き寄せて腰かけ、天井を向いて煙を吐いた。頭がくらくらしたが、決して悪い気分ではなかった。
「そのときレコーディングされたのが、例の『ダークアルバム』だろう」
「そう。タイトルも何も書かれていない、真っ黒いジャケット。半分がアコースティックギター一本で歌われているし、バンド演奏はすべてアンプラグド。当然、いつもの超絶テクは一切ナシというわけで、それがお目当てのファンたちから、抗議が殺到したみたいね。二年半も待たせておいて、これかよ、みたいな」
ジギーは死んだとか、前作で才能を使い果たしたとか。いろいろ言われたらしいことは、エイジから聞いている。
「おれは好きだけどね。火星から現実世界へと生還した男が、狂気すれすれのところで、懸命に踏み留まっているようなところが、さ」
ほとんど害虫屋の受け売りだが、かれの率直な感想を代弁していた。歌詞は難解を極めているというが、どうせ英語だから気にならない。何といっても、スローな曲が多いところが気に入っていた。ただ、「火星の唄」のリピート率には、遠く及ばないが。
「狂気すれすれのところで、か。うまいこと言うわね。それでいて、どこか苦悩を超越してるというか、さっぱりしたところがあってさ。聴いてて楽になれるんだよね。ジギーに限らず、わたしは最高傑作の次が好きなんだ」
「最高傑作の、次?」
「そう。ビートルズでいうと、ホワイトアルバム。サージェント・ペパーズの結束力は、もはやなく、変な曲ばっかりなのに、ついつい聴いてしまう。あのユルさが、リラックスできるのかしら。燃え盛る夏より、滅びゆく秋のほうが好きなのかも。ま、今の時代、秋という季節自体が、ファンタジーなんだけどさ……訊かなくていいの?」
「え?」
「わたしのこと。なぜ追われていたかとか」
「知りたいことだらけで、何から訊いていいのかわからない」
恵理子はベッドの上で少女のように膝をかかえ、くすくすと肩を揺すった。短くなった煙草を、自身の靴の上で揉み消し、それから遠くを見るような目つきで、かれを見つめた。
「教えてあげるよ、黒竜。あんたが一番知りたいこと」