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窓にはブラインドがかけられ、幸い、ガラスも割れていなかった。女はすぐにベッドに腰かけ、脚を組んだ。破れたスカートから、太腿があらわにのぞき、かれは思わず目を逸らした。
「煙草、もってないかな」
最初からあるはずもなかったが、ポケットを探るふりをした。煙草を吸わない男だとは、思われたくなかった。
「どこかで落としちまったみたいだ」
「そう」
無感動な調子で女は言い、沈黙がおとずれた。ブラインドの隙間から射しこむ、蒼ざめた外光の中で、微細な埃が踊っていた。外はやはり、火星の街のように静まり返っており、バイクのエンジン音はおろか、足音さえ聞こえなかった。
沈黙に耐えかねて、黒竜は口を開いた。かさかさに乾いた声が出て、内心うろたえながら。
「ケガはだいじょうぶなのか」
「調べてみれば?」
「そういう意味で言ったんじゃ……」
振り返ると、笑みを含んだ目に見つめ返された。ハスキーな声が、気怠そうに響いた。
「あんなタマを持ってるくらい、ワルのくせに。案外カタいんだ。それとも病気が怖いのかしら。ね、顔を見せてくれないかな」
ヘルメットを被り放しだったことに、ようやく気づいたのである。恐ろしげなメットと素顔とのギャップを、よくオヤっさんにからかわれていたことが、思い返された。おい竜、初めてのお客の所へは、メットを脱いで行けよ。笑い死にされちゃ、コトだからなあ。
かといって、拒絶する理由も見つからないまま、おそるおそるメットを脱いだ。女の表情に、とくに変化はあらわれなかった。
「赤間恵理子」
「えっ」
「わたしの名前。あんたは?」
黒田竜吉と言いそうになって、あわてて口をつぐんだ。エイジみたいに、「コードネーム」で通そうと、心に誓ったではないか。
「お、おれは黒竜」
うなずく変わりに、その女……赤間恵理子は、大きな瞬きをひとつ返した。美しい女だ。少々、鼻が高すぎる嫌いはあるが。それだって、今となっては美点に思えてきた。いったい鼻が高いからといって、文句をつける筋合いがあるだろうか。
黒い風防ごと、メットを脱いだせいで、部屋が明るく感じられた。日暮れにはもう少し間があるらしい。ゆっくりと、女が脚を組みかえるのを、今度は目を逸らさずに、呆然と眺めた。見事な脚を覆う黒い靴下は、ガーターの代わりに、太腿の部分で幅の広い、白いレースで終わっていた。その気になれば、この女を自由にできるのだろうか。
自身さえその気になれば、女を、どうにもこうにも手に負えなかった世界を、今こそ思いのままにできるのか。
「煙草を買ってくるよ。おれも吸いたいからね。ついでに飲み食いできそうなものを、調達してくる」
わざとぶっきらぼうに言い捨てて、圧倒的な「女」の存在感から逃れるように、部屋を逃げ出した。夢中で廊下を歩き、周囲の様子を探りもせず、通りに出た。埃っぽい街路に、相変わらず人通りはなく、暮れなずむ赤い空には、人工衛星が瞬いていた。
出てきた建物を振り返り、溜め息をもらした。急に胸をしめつけられる気がした。それが激しい悲哀の感情だと気づいたとき、かれ自身、呆然とするばかりだった。あの部屋はすでに空っぽで、女の姿は消えているような気がしたのだ。
(何を考えてるんだ、おれは)
不可解な感情を懸命に打ち消しながら、酒場とおぼしい店のドアを押した。薄暗い、狭苦しい店内に客はだれもおらず、音楽さえかかっていなかった。白いヒゲの目立つ亭主は、イーズラック人であることが、はっきりしていた。ポケットを探って、くしゃくしゃの紙幣を取り出し、カウンターの上に広げた。
「煙草が欲しい。あと、水と食い物を持たせてくれ。これで足りるかい?」
亭主はうなずくばかりで、ついに一言も喋らなかった。紙袋を抱え、女の待つ部屋へ急ぎながら、やはりここは、火星ではないかと考えた。地球とかいう星では、さっぱりうだつの上がらなかったこのおれだが、ここでは何でも欲しいものが手に入るんじゃないか。不吉と言われるこの星では。
女は部屋で待っていた。