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刷新のやつらは気に食わないが、なけなしの給料から、所得税をごっそり絞られているぶん、保護してもらう権利はあるだろう。ただこの状態で、ケイサツに駆け込むわけにもいかないので、とりあえず武装警官がうろついていそうな、市街地を目指すことにした。面倒なことになる前に、警官ごとマイてしまうつもりである。
背中の女は、それっきり口をきかなかった。眠ってしまったのかと疑ったほどだが、バイクが斜めに傾くたびに、かれの胴を締めつける腕の力は、効率的に強められた。存在感の希薄さが、かえってこの女の個性を、強調するように思えた。
バックミラーには、三台のバイクが映っていた。乗っているのはやはり、三人のガスマスクで、改造バイクに鉄パイプが挿されているのがわかった。掃討車を引っ張り出すくらいだから、ひょっとしたらと危ぶんだが、物騒な飛び道具は、所持していないらしい。
(ちゃらちゃら飾るだけで、ろくに手入れもしてねえんだろう。そんな屑みたいなマシンで、追いつけると思ってんのか。いざというときに応えてくれるのが、マシンへの愛だってえの)
黒竜がスロットルをふかすと、愛車は頼もしいエンジン音を張り上げた。たしかに単気筒では競り合いには不利だが、悪路や公道を突っ走る、喧嘩レースでは威力を発揮する。多少の障害物など、ばりばり乗り越え、かれの愛車は風を切り裂いた。
時おり、女を後ろに乗せていることすら、忘れるほどだった。
そうだ、おれは女を乗せている。この言葉を反芻するたび、得体の知れない快感が、身内からぞくぞくと湧き上がってきた。危険なにおいがぷんぷんする快楽。いかにも後になって、たっぷりツケを払わされそうだが、あらがうこともできない。
(きっと男ってやつは、こいつが忘れられなくなっちまって、身を滅ぼすのかもな。スピードだとか、女だとか、ヤクだとかにハマっちまう野郎の気もちが、今のおれにはちょっとわかるぜ)
どこかでサイレンが鳴ったように思えた。あれだけ派手な爆発が起きたのだから、鳴らないほうがおかしいのだが。あるいは、それは公道をスッ飛ばすあやしげなバイクどもに、向けられたのかもしれない。チキンレースもこれで終わりかと思うと、なぜか一抹の淋しさが、かれの胸をよぎった。
喧騒が不意に渦まいては、また遠ざかった。急角度でバイクを傾けているときも、ほとんど無感覚だった。女がよく振り落とされないものである。悲鳴ひとつ上げないどころか、まるで、バラスト代わりになってくれているようにすら感じる。おそらくは、充分にそのことを意識して。
自身の小心が原因であろう、このぼんやりとした気分が、かれにはかえって、ありがたかった。何も怖くなかったし、まるで勇敢な男になれたような気がした。あとはいきなり我に返らないことを願うばかり。もし我に返れば、震えが止まらなくなるだろうから。
拡声器で、何事か怒鳴っているのは、警官だろうか。それとも、デモか集会にでもぶつかったか。いずれにせよ、拡声器のある所にケイサツはつきものだ。何やらいろんなモノにぶつかっては、跳ね飛ばしているが、人を轢いてはいないことだけは、わずかに残った理性が確認していた。
気がつくと、どこかの路地裏を、のろのろと走っていた。ジギー・バンデル・ルーデンの傑作アルバム「火星の唄」のジャケットに描かれているような、石畳の路地。火星の街みたいに薄汚れた所。空が赤いのは、日が沈みかけているからだろうか。そういえば、昼飯代をもらったけれど、とうとう食いそびれたな。
ともあれ、火星まで逃げたのであれば、当面、追っ手はかからないだろう。
黒竜はバイクを停めた。地に足をつくと同時に、腰に巻かれた女の腕が、すっと緩んだ。思わず振り返ると、間近で目が合い、心臓が跳ね上がった。女の表情には、疲れが色濃くあらわれていたが、共犯者めいた悪戯っぽい瞳が、かれを見つめていた。
「エンジンを切って。バイクはどこか適当なところに、隠したほうがいいわね」
囁きが呼び覚ます心地よい戦慄に、背筋を貫かれた。
路地には、まったく人通りがなかった。まるであつらえたような感じがしたが、女の目には、黒竜が意図的に選んだよう、映っていることだろう。古めかしいビルの壁に、すっぽりと覆われて、街灯がまたたき、酒場や食べ物屋の看板が、淋しげに光っていた。
建物の隙間にバイクを入れて、やはりあつらえたように落ちていた、ビニールシートをかぶせた。肩を並べたとき、女が少し、足を引きずっていることに気づいた。
「ケガをしてるんじゃないか?」
「あれだけ派手に動き回れば、しないほうが変でしょう」
見わたすと、建物の半分は空家とおぼしく、窓ガラスが割れ、戸口がぽっかりと開いていた。かといって、浮浪者やイーズラック人の巣窟になっているわけでもなさそうだ。まるであつらえたような、という言葉が、三たび、かれの頭に浮かんだ。
もとは共同住宅だったとおぼしい建物の、外れかけた戸をきしませて入った。文句一つ言わず、女が自分に従っていることが、不思議といえば不思議だった。常にかれを小ばかにしており、一瞬の快楽の代償として、莫大な金を要求する、どうにも始末に終えない存在。女に対して、そんなイメージが固まりつつあったから。
薄暗い廊下を通り、部屋のひとつに入った。荒れ果ててはいたが、ちゃんと椅子や机があり、まだ充分使えそうなベッドがあった。