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この何事も芝居がかった女なら、ダラウドの声音や仕草を、真似られるかもしれない。けれど、
「キャンディーさんは、ずっとわたしたちと一緒でしたものね」
軽い音をたてて、ポテトチップスを噛み砕きながら、二葉の思いを察したように、霞美は言った。
「廊下で待ってたんだから、厳密には、ずっと一緒というわけではなかったけど。まあどうあがいたところで、驢馬の皇帝に成りすますのは不可能ね。そもそも、どこのだれにせよ、驢馬の頭を被ることに、何らかのメリットがあるのかしら」
「脱出するために、ドアを開けさせる必要があった、とか」
「わざわざ密室に仕立てるために? 酔狂にも程があるわ。例えそうだとしても、果たして、わたしたちの目を盗んで、脱出できたかどうか」
「身を隠すには事欠かない部屋ですから。家具に隠れながら、わたしたちの先回りすることは、必ずしも不可能ではありません」
「廊下で、キャンディーが待ち構えているんだから。ドアを開けたとたん、鉢合わになるわ」
「鉢合わせになっても、キャンディーさんを黙らせておくことなら、可能です」
「ちょっと霞美、あなたわざとミステリー的に、問題を迷宮化させてるでしょう」
演技的に睨みつけると、ポテトチップスをくわえたまま、霞美は悪戯を見つけられた子供のように、肩をすくめた。
「そんなつもりはないんですけど。驢馬の皇帝が、ダラウドさん本人だったかどうかは、重要な問題ですから」
「なるほど、消去法というわけね。可能性を追求すればするほど、絵空事めいてくる。やっぱりわたしには、あれがダラウド本人だったとしか、思えないんだなあ。つまりグム・ダラウドは、わたしたちが部屋に入った二一時二三分から、およそ三〇分までは、少なくとも生きていた」
「そうなると、かなり強固なアリバイが成立しますよね。わたしたち二人と、キャンディーさんに」
霞美の言葉を逆にたどって、二葉は身震いする思いがした。美しい、けれどゾッとするようなキャンディーの眼差しが、また脳裏をよぎった。
そうだ、あれより先にダラウドが殺されていたとすれば、彼女こそ最も疑わしい。あの夜、ボイラーを修理していたと言っていた彼女は、ずぶ濡れではなかったか。五〇二号室の寝室のドアは、わずかに開いており、壁と壁の間を無理によじ登り、そこからダラウドを撃つことは可能だと、亜門も認めたではないか。
(奇抜な仮装を凝らしたダラウド閣下と会話した時点で、閣下が死んでいたほうが、辻褄が合うのです)
そうだ、あまりにも辻褄が合いすぎる。あの髪を振り乱したキャンディーの姿こそ、壁をよじ登り、得物を仕留めてきた、女悪魔のようではなかったか。
あのあと、わざと見せつけるように、彼女は二葉たちの目の前で服を脱いだ。銃など隠し持っていないぞと言わんばかりに、脱いだメイド服を調べてみせた。それから、古い怪奇映画の犠牲者が着るような、薄手の夜着を身につけ、ずっとそのままでいた。
五〇二号室からメイド部屋に戻ったあと、三人でポーカーを一勝負したが、提案したのは彼女だった。赤間恵理子も誘おうとして、部屋にいないことを確かめた上で。
「そうなんです。もし犯行が二一時から二二時の間の、最初の三〇分以前に行われていたとすれば、恵理子さんのアリバイが完璧になるんです。逆に……」
もの音に驚いて、二人同時に、ドアへ視線を向けた。半分開いたまま、わざと枠にもたれるようにして、キャンディーこと生田累がたたずんでいた。
「いい香りね。ラズベリーかしら」
驢馬の皇帝の脱出は可能だった。廊下にはキャンディーがいた。鉢合わせになっても黙っているのは、自身にとってそのほうが有利だから。つまり、驢馬の皇帝とキャンディーが共犯関係にあったとしたら?
呆然としている二葉を尻目に、彼女は自身のベッドに腰をおろし、ふっさりと髪をさばいた。乾いた髪から、無数の水滴が飛び散る幻覚を、二葉は見た。いつの間にか霞美が淹れたティーカップを、彼女はゆっくりと口もとへ運びながら、つぶやいた。
「あの老人に、あんなにたくさんの血があったなんて」
マクベス夫人のセリフである。眉をひそめる二葉を、くすりと眺めて、彼女は語を継いだ。
「遺体を食い荒らしたワームは、いわゆるワーム爆弾であることが判明したわ。時限装置でワームの詰め合わせの箱が開くという、よくある仕掛けね。サミダレムシやアシダカジゲなど、人には無害な種類も混じってたみたいだけど。箱の大きさからして、窓の隙間から投げ込むことは、できたみたい」
「夜間支配人と話していたの?」
「拷問にでもかけられていると思った?」
血の色の紅茶をふくみ、キャンディーこと生田累は、ゾッとするような笑みを浮べた。